『À LA MARGE(外の道)』前川知大

『À LA MARGE(外の道)』
作・演出:前川知大
http://ikiume.jp/paris.html

そこにいない人が舞台上にいて、そこにいる人のセリフを他の人が言う、ギリシャ劇場みたいだなと思ったらアフタートークでそれをイメージしたものなのだとおっしゃっていた。
光が美しかったし、じっくりと人を見せる始まりもよかった。
ひとつ気になったことがあって質問したかったのだけど、フランス語で何と言えばよいやら…と考えているうちにタイムリミットになってしまい残念だった。
登場人物が作る時間の中には、動きや話すテンポや間合いなどに緩急があったんだけど、後ろに流れている大きな時間の方はずっと一定のリズムで流れててそれがちょっと違和感だった。つまり時間の層がふたつあって、手前の層は動いてたけど奥にある層があまり動いてなかった。ずっと一定のリズムが流れていて、同じ呼吸が留められているような感じ。
基本的にこのストーリーは、二人がカフェで出会ってそれぞれの生活を物語る、というもので、ずっと同じ場所にいるんだよということを表したかったからなのかもしれないとも思う。ただ、少し間違えると単調に転んでしまう、間延びに感じてしまう、ようなテンポ感だったので、どうしてあえてそういう演出にしたのかを聞いてみたかった。
「わからないものをそのまま受け取って、そのまま握っておく」というようなことがコンセプトなのだとしたら、感覚的にその違和感をかんじさせるための仕掛けだった(もしくは作り込んでいくうちにその感覚を残しておこうと思った)のならなかなか面白い。確かに私はそこに奇妙さというか、居心地の悪さを感じたから。
コロナの中で作られたとのことだったから、時間だけは変わらずちゃくちゃくと進んでゆく、でも日常のリズムを自分ではいかんともしがたい重たさのようなものを表したものだったのかも。
もしくはフランス版だから敢えてテンポを変更したのかもしれない。

背景の役者さんたちの空間配置が美しかった。目立たないが、的確に視線を移動させるやりかた、穏やかだけど明確な空間操作だった。アフタートークの時に「今回が振付は初めて」と言っていたけれど、振付師というかムーブメントを演出した下司尚実さんの名前も出してほしかったな。
帰り道、尚実さんに色々話を伺うことができた。話を総合して聞くに、あの時間の違和感はあるべくしてあったもののようだった。空間の空気の動かし方や、配置、役者の視線の方向、お客さんの視線の誘導…最低限の、でも確かにある、ということをミリ単位でかたちにしていったのだろうなあ、そのビジョンや感覚を複数人の体で再現するというのは大変な作業だっただろうと思う。

物語の終盤、主人公が全くの暗闇の中であることを体験するシーンがある。会場は暗転し、舞台上にも客席にも一切の光がない暗闇のなか、言葉だけで主人公の体験が描写され観客に伝えられる。誰かの体験が細かに語られて、その声を受け取っている自分の体はやはり暗闇に包まれて見えない。何も見えない、真っ暗ななか、暗闇の中で起きた体験を声を頼りに一緒に辿る、その時間がとても面白かった。
そのシーン、日本で上演された時にはただの暗闇だったものが、フランスでは舞台上部に仏語字幕が電光掲示板で流れているから、まるで「初めに言葉ありき」みたいな感じで、体の存在はまだないのにことばがやってくる、ことばをたどりながら体の輪郭がたどられ、認識される、ような状態になったのがすごく面白かった。これは多分意図されたものではないかもしれない。むしろ字幕が出ることは暗闇を破ってしまう懸念材料でもあったのではと想像する。
でも私にとってはあの字幕があったからこその体験だったなと思えて、よかった。

最後はてしない物語みたいな雰囲気だったはカタストロフの後の作品だからなのかな、とか、ちょっと途中説教くさいことが気になりはしたが全体的に興味深く見た。
理解しきれないものと付き合う、ということと物語を回収しないこととの間について考えつつも、面白かった。
他の作品を見たことがないのでいつかの機会に見てみたいな。