聞こえない会話、どこにも繋がらない部屋



クシシュトフ・ヴォディチコの「もし不審なものを見かけたら……」という作品をことあるごとに思い出す。
「陰影礼讃」という展示で知った作品なのだけど何か自分の新しい部分をぺり、と剥がされたような感じがして、でも剥がされた箇所がどこなのか見えない。
こんなに心に残っているのは最初の勘違い(この作品は映像なのだけれど、私は最初、実像と思ってしばらく見ていた)が覆されたことでもたらされたものだったんだと思う。
剥がされたそこがはじめて触れた空気は知らない味だった。

見る、ってなんだろうなあと思ったし、ひとのからだの存在感のことを思った。
見ることってすごく一方的で、矢印の方向によっては密やかだし逆だと射ることになる、でもなにか、この眼窩という穴から覗く、というところから出発するこの視線はすごく個人的なものなんだという気がすごくした。

すりガラスの向こうのひとは私が眺めてると知らない。
もしかしたらマジックミラーのようになっているのかもしれない。そのくらい、ガラスに近づいてリラックスしているから。
と考えたくらいに、最初、私にはこの映像がほんものに見えた。
この部屋の外には通路やちょっとした休憩室があって、そのひとたちが見えているんだと思っていた。あえてもう展示を見終わったひとたち見せることを作品としているのだと思った。
部屋の中のひとたちは、一方的にそんなひとたちを眺めているのだと。
それが映像であると気づいた瞬間、全然こちらからの一方向じゃなくて逆に向こうからの視線だったんじゃないか、と考えたけどすぐさま、このとても手触りのある影たちは全然違う時間の向こうにいてそれこそ、ほんとうに私の見ている行為というのは届きようのない、一方的な行為だったのだ、という風に認識しなおした。
自分の何重か内側にめりこんだところに突然放り込まれてしまったような気持ちになった。

すりガラスの向こうの顔の表情は見えない。
流れている音(声)もちょうどこの厚さのガラスの向こう、というくらいにくぐもって小さく、更に私は英語が聞き取れない。
でもからだの影だけはその状況を伝えてくる。
すりガラスに触れると、影や輪郭だけじゃなくて肉体の感触も伝わってくる。
似ているな、と思ったのは、電話の混線だ。
私は友達と話している。なのにどこか遠いところで女のひとが細い声で誰かと静かに話している。
最初はおばけじゃないかと思うくらいに微かに。
混線は私の通話相手の友達には聞こえないから、なんとなく通話は続く。
けれど私の耳のある部分は紛れ込んできた回線の声を辿る。
女のひとが泣いていることに気づく。何を言っているのかまではわからないんだけど、その声や声の隙間から、なにか修復できないことについて話していることがわかる。
ずっとずっと遠いトンネルの向こうから聞こえてくるようなその声も現在のものなのだろうけど、とらえられない向こうの時間から受信されたもののように聞こえた。

まだ写真を見慣れないときにティルマンスの写真を見て、写真はそこに写った絵のよしあしを見るだけのものじゃないんだと気づき驚いたことがある。
写真とはその、紙になにごとかを写すことそのものだ、ということに初めて思い至った。
ビル・ヴィオラを見たときからなんとなく映像って面白いなあとか舞台に使えそうって考えたりしたけど、もしかしたら、映像ではなにかをくつがえしてくれたのはこの作品なのかもしれない。


私はすりガラスのこちらにいてその人たちを眺めている。
すごく落ち込んでいる男性を慰めるひとがいて、もしこのすりガラスがなかったらこんな無遠慮にじろじろ見たりできない。なのに私はとても近くでそれを眺めている。
そしてこのひとたちは実際、ここにいるわけですらないのだ。
こんなに近いのに、時間によっても場所によっても隔てられてる。
一方的なのはどちらなんだろう?
見ていることか、届かないことか。
なんだかわからなくなって、座り込みそうになった。

すりガラスから離れてゆくと人物は私の届かないところに見えなくなって消えてゆく。
今はその向こうには美術館の壁しかない。
でも世界のどこかにはすりガラスの向こうがあって、私がいる側もすりガラスのこちらの世界がほんとうはひろがっていたはずなのだ。
その映像はどういうわけか私のいる空間をどこにもつながらないものにしてしまった。