展示を見に行って考えたり感じたりしたこと

2161No1 (8)

メモ。 冷凍装置に笛が載っていて、凍りついて霜がおりているという作品であった。 一体何を言いたいのだろうな、 といのは、私自身、ここにある「コンセプト」のようなものに邪魔されず、この作家さんの足元へアプローチする道を見出すことをしてもいいのではないか、ということをふと考えたから。 このごろ、頭で先に受け取らなきゃいけないような作品とか言葉に拒否反応があって、すぐに「またか」とはねのけがちだったのだけれど、果たして私はどれほどその表面をかいくぐることができていたのか、と立ち止まらされる瞬間だった。

この作品のある部屋には天窓があって、そこから外を見たら、ちょうど木に鳥が巣をかけていた。 わたしは美術作品を見に来たのだけれど、この巣を眺めることがとても今の自分にはいいなと感じていて、しばらく見つめた。 展示を見る時にはいつもこういう体験があるな、と思った。 その作品がつまらないから他に気を取られるということではなく(少なくとも今日はそうじゃなかった)、見た作品、見に来たという時間に、作品とは関係ない体験や記憶が紐付けられることが、わたしはとても好きだ。

別のお部屋に入ったとたん目に入ったのは、大きな2階くらいの高さのあるキャンバス。うっすら揺れる線が描かれていて、その上に花が、さらに薄く描かれていた。 私には打ち寄せる波とさくらに見えて、その組み合わせは私に2011年の福島のことを思い起こさせた。 波とさくら。 震災のあった後、はやくさくらが被災地にも咲いてほしい。春が来て欲しいと願ったことを一瞬で思い出した。 その絵の手前に立っていた、銅色の大きな鉛筆のようなものがイメージをよりそちらに寄せたのかもしれないけれど、いつもそんなにしょっちゅう福島のことを考えているとはいえない自分がはっとすぐその印象に囚われたことが、とても興味深かった。 実際その作品が具体的な何かを示すものだったのかどうか、わからない。

その地下にもまた、大きな作品があった。 巨人の扉みたいな…でもそのことよりも私はその作品の白い部分がところどころ黄緑色やピンクに見えることがとても気になった。 これは照明のせいなのか、実際その色に塗られているのか、よく目をこらしてもわからなかった。 でもピンク色は動いていたので、照明のせいだと思う。 私は雲でも白い壁でも、白い色は日によって虹色に見えたりすることが多いので、これが作者の意図であるのか、照明の色でこうなってしまったか、はたまた私にしかこの色が見えないのか、判別できなかった。 判別できないからこの作品が果たして何を語ろうとしているのか考えられない、というふうにいうこともできるのだけれど、 作品というのはおしなべて、このように、まるっきり見るひとに預けられるものなのだということも、ふたたび思った。

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これはなんだろう。 と私が作品から拾おうとする。 私にはわたしにしかない積み重なりや見え方がある、そのからだ/感覚で、記憶を掬いだしたり、なにかと結びつけて解答を出してみたり、全然違う寄り道をして空想が広がっていったりする。 わたしはその、受け取った働き、そこから拡がってゆく、そこから還ってゆくというそれ、にとても興味がある。 作品自体より、その先にある自分の感覚ばっかり見ようとしているんじゃないか、たまに美術の見かたを誤っているような気持ちになることもある、 でもわたしはその、関係の反芻というか、「そのひとの作品」も「わたし」も「美術」も「生きること」も時間の前後も、そういうものを行ったり来たりして、ぶくぶくうがいみたいに、いつのまにか混ざって、濾して、残ったかもしれないし忘れたかもしれないしいつかまた別の何かをみたら蘇るかもしれないし、じぶんのいちぶになるかもしれないし、永遠にぽかっと割れて消えるかもしれない、そのこと自体をいつも味わいたいのかもしれない。

1999No1 (6)

今日歩いた道にはギャラリーが多くあるのだけれど、その並びに突然床屋さんやコインランドリーがあったりする。 ギャラリーだと思い込んでコインランドリーを見るものだから、一瞬、洗濯機の列が美術作品に見えたりする。 しかも、うわあ、と圧倒されたりする。 なんだか、人もぼさっとそこにいたりして実感が増すし。

美術館でも、コンテンポラリーアートの展示だと、作品に並んで湿度計があったりして「あれ?これは作品だろうか。」って立ち止まってしまったりしませんか。

その瞬間がその美術館賞のなかで一番面白い瞬間だったりする。 そのたび、どきりとさせられます。