たとえば踊ることは自分自身のうちのなにものか/全体のようなことをどうにかしようとすることだとして、写真はそこにあることに手出しをすることはできない、ようなことだとする。

けれど今まであまりにも「自分が踊っている」ということにとらわれていて気づかなかっただけで、だいたいそこにあるなにかに手出しができたことなんか、一度だってあったのかな。

今までしていたどんなことも、どうやったって手出しをすることができないというそのことと、自分との間を埋めようとしてもがいていた、その落差のような部分に過ぎないんじゃないだろうか。
わたしには何も変えられない、ということがそこにあって、それを知りつつ渇望する。
わたし以外のものからはわたしは、どうしたって身を剥がしておくしかない。
だってそれは、この手には負えないものだから。
すべてのものは大きすぎて、完全すぎて、どうにも触れない。
だけどどうしても、切り離して関係ないよっていうふうにはできない。
いつもいつも痛めつけられるのに、見てしまう。手を伸ばして触れてしまう。

世界はそれ自体ではわたしを傷つけない。
でも、近づこうとすることでわたしは傷を負う。
「美には傷以外の起源はない」とジャン・ジュネは言ったけれど、もしかしてそういうことなのだろうか。