死に関する短編

20:22
今日も昨日も10日前も3ヶ月前にも心に留めなかった人のことを口性なく言うのも悼むのも、その間にはたらいているものの中に似たものが潜んでいるような気がして、自分の胸のうちに薄暗いものに感じる。


ガルシア・マルケスの短編集『青犬の目』を読んでいる。

死者から見る世界のことが書かれている。幽霊のようなものが彼の/彼の周りの世界ではどんな風に「目撃」され「体験」されているんだろう。

●死の向こう側:
萩尾望都の(そして野田秀樹の)『半神』を思い出すような話だった。病床の双子の弟が亡くなり、そのやつれた顔の髭を剃った途端に自分が現れる。土の下にいるのは果たして弟なのか、自分なのか。

●エバは猫の中:
死者の乾きや、どんな物理的な場所にも同時にいる、そしてどんな時間にも存在できる死者の感覚がよく描かれている。『夢十夜』のような急な遠近感によって世界の音がすべて吸い込まれて、終わる。

●三人の夢遊病者の苦悩:
生きている人が死と生をどんなふうに編んでいるか、死んでいる人が死をどう生きているか、この話の中では死は固定されない。生きている時と同じようにそこにまだ肉体があるのに、どうしてその世界が終わったと言える?
人の存在は時間を飛び越える。老婆は赤ん坊だし、わたしは1000年前の娘でもある。
読み終えてからタイトルをもう一度見てはっとした。迷子になっていたのは死者ではなく、3人の息子の方なのだった。

私は西陽が差し込む部屋でうろうろ徘徊しながら本を読んでいる。葉や建物に遮られて薄くなった光が目の中やページに入り込んでくると不思議な気持ちになった。自分が羽虫みたいに透明に感じた。

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どちらにせよ、それは幻などという言葉で片付けられるものではなくて、確かな現実なんだな。

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●六時の女:
ふいに、8年前に煙草をやめたとき、それでも試しに1度また吸いたくなった時に読んでいたのはガルシア・マルケスだった、ということを思い出した。すぐさま「え?本当に?」と疑った。なぜそんなにはっきりとした確信をもって、そう考えたんだろう。でももうそうとしか思えなかった。偽の記憶かもしれない。でも確かにそうだったと強く思う。

話は分離しているのに、どこかで鋼の糸のように繋がっている。菫の香り、土を口にすること、死者が自分の体を見ている、徘徊、…
そんなリレー形式の短編なのかなと思ったら書かれた年代が同じではない。マルケスの物語世界はひとつの宇宙だから、その地図上にあるどこかの場所に複数回訪ねることがある、というそれだけなんだろう。

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暮れゆく空を眺めながらココナツチップスを食べていたら濃い蜜のような香りがした。菩提樹にしては強いし季節でもない。それに匂いが届くほど近くにも生えていない。
ココナッツを入れていた瓶は、その前は無花果ジャムを詰めていたもので、その残り香がしたのだった。