Lucio Fontana を見ての小さなメモ

ほどこした行為のその真逆のことが、彫刻には残る。 そこに残っているのが、まさにその創作の行動を真逆にトレースしたものなのだということを、そんな改めて言うまでもないことなのだろうけれど、感じて、新しいことを見つけたような気持ちになる。 そこに残っていたのは裂け目で、それは女性のように見えて、けれどビデオの中のLucio Fontanaは突き刺し、切れ目を入れる行為をしていたのだった。 踊りは、おどったことがそのままそこに表れるだけだ。 なのに彫刻は加えた力の、真逆のことがそこに表れる。 開かれた口は、切り裂いた行為があったから存在して、その存在がその行為のことを語る。 足したり引いたりしたらゼロになっちゃうし、そうしたら立体の存在そのものが疑わしくなって、数学と違わないなあとか、だからジャコメッティはあんなに細っこいのかなとか考えながら、手のひらを見て自分が内側から見ているその外側の皮膚のねじれがよくわかんなくなった。 かねてから皮膚を境にしてずれている身体の内部(皮膚のこちらがわ)と世界とのズレ、そこにあることは鏡なんだろうか?というような疑問のほんのはしっこをひっかくようなことでもあって、展示会場の中でしばしぽかんと立ち尽くした。

たぶん、その作品が平面なのに立体だからそんなことを改めて考えたんだろう。 キャンバスの面ははじまり。そこがゼロであって、マイナスはない。ということに慣れて普段絵を見ているから。 今までどんな立体を見ても、そんなことは通り過ぎてきてしまっていたから新鮮だった。 ティルマンスの写真を見て、景色じゃなくて写真を物質として初めて認識した日を思い出した。 (そういえば、写真だって平面上でネガティブ・ポジティブなんだけど)

2時間も3時間もそのひとの生涯手がけてきたものの間を歩いているうちにようやっとその接点はどこからともなく飛び込んできて、灯る。 理解が遅いのはいつものことだけど。

Lucio Fontana EXPOSITION @パリ近代美術館