Peeping Tom『Vader』、パリに来て1年経ちました

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全然ブログを書かなくなったな。 3年前くらいまでは10年間、ほとんど毎日書いていたのに。 言葉にしてあらわす、ということに対して今よりもっと気楽でいたことが懐かしいような気もする。

明日はパリ祭です。 パリで一番大きなお祭りで、シャンゼリゼをフランス軍が行進し空軍の飛行機のスペクタクルがあります。夜にはエッフェル塔から花火が打ち上げられる。 今年もみんなでそれを見に行こうか、ということになって、このところ毎日のように感じている「もうここに来て1年経ったんだな」をそろそろここに書き連ねておこうかな、とも思ったのだけれど、なんだか膨大な時間がかかりそうなのでやめておく。

去年の今日より少しだけフランス語が分かるようになった。 風景が自分と違う次元にあるような感覚はもうない。 ご飯を作るのに少し慣れた。 髪が伸びた。 そうだな、1年経って、大人ってなんだ、ってなった。 自由になった。 自由になった、自分がありたい姿に対して、そして多分厳しくなった。 揺らぎや根の在り処について思い悩むことはなくなった。 下手くそなことがありすぎてぐずりたくなることはあるんだけど、でも相変わらず、本当はなにも恐れていない。


Peeping Tomの『Vader』を見に行った。 多分4年くらい前だと思うけれど日本で『Le Sous Sol』を見た時にとてもいいカンパニーだなと思っていたので、パリで見られて嬉しい。 感想をメモ。

全体を貫いているのは何かが連鎖してゆく、みたいなことだった気がする。 ひとつのことがどこかで小さく起こり増幅されて全体に伝染し、その震えが最高潮に達すると収束し、収束と同時に次の震源がどこかにおこっている。 特に身体の動き、ダンスがそんなように次々と受け継がれていっていたし、物語もあるイメージをきっかけに展開が始まる。 面白かったのは身体的に語られることのひとまとまりと、イメージとして語られることのひとまとまりが時には順を追って移り変わらず、時間的に重なってる部分があること。 身体は継続して同じことをやってるのに物語は次に進んでいる。それぞれが進む時間の早さが一定でないので時間的にも空間的にも様々な濃度の身体や物語、感情がまだらに置かれているような、そこから観客としての私が受け取って噛み砕くまでの時間もまた一定でない、そのバリエーションをとても巧みだと思った。 しかも感覚としては、全体としての連続を感じる。 (もう少し言うと) 舞台空間上のあちこちで色んなことが巻き起こる。群像劇みたいに。 その瞬間舞台上には場所的に色んな濃度、重力みたいなものが見えてくる。感情の濃度だったり、セリフや動きの濃密さだったり、そのことが観客の身体や視覚イメージに働きかける密度みたいなものが置かれている。 その瞬間の連続が時間軸を作っていく。 いっぽうで、実際に流れる時間の上にはまた別の濃度が作られてる。 瞬間の空間の持つ濃度と、時間の上に流れる濃度が感覚の上で縦と横の糸みたいに編まれてゆくと、時間が過ぎたあとに感覚としての編み物が出来上がっている、その編み物が複雑ではあるけどシンプルに訴えかけてくる、何が私に沸き起こったのかはっきりと記せなくても、確かに大事なことが巻き起こった、しかも彼らが何を狙ったのか、何を織り込んできたのか、共謀のように理解できる(気がする)。

とてもバランス感覚に優れている。 たぶん、ヤン・ファーブルなら、同じテーマや範囲を、振り切り過ぎたところでやる。でも彼らはぎりぎりに届かない手前の、ちゃんと観客の手に収まるところでやっている。 私はどちらも好きなのだけど。 『Le Sous Sol』を見た時に感じた豊かな感覚に裏付けられた巧みさ、のようなものはよりクリアになってあったような気がする。 今回ダンサーが様変わりしていたように見えるけれど、どちらの作品にも強く通底するものがある(『Le Sous Sol』の内容そのものはおぼろげにしか覚えていないのだけど)ということは、演出している方は同じなのかしら。

彼らにしろヤン・ファーブルにしろアラン・プラテルにしろ、身体表現がこれ程、というかこういうかたちで「ものを言える」とはっきり示してくれたことは新しい希望だなあと思う。 (多分この劇的な変化はそれこそこのところ6,7年で興ったことのように感じるのだけれど、私はそんなにたくさん見ていなくて分からない。) もちろん、身体からの感覚を重視するような作品も好きだけれど。


人間は今の瞬間ここに生きている、その身体は丸く収束してるのだけど、時間も合わせて考えると、というか感じると、ずっとトンネルみたいになってる。 その端っこはお母さんのお腹の中で、もう一つの端は今の私、そういう、瞬間としての立体が時間を重ねることで空間に穴を開けていくというか空間に編まれていくというか、そして舞台も同じような見方をできる、ような気がする。 舞台は人間の存在と似てる。 架空があって、でも実際そこに建物としての立体・空間があるからかな。 身体と物語を同時に備えているからかな。

ひとは敏感だから、そのトンネルのどこをまさぐられているかちゃんと分かる。 自分が、目の前で巻き起こっていることに対してどこまでそのトンネルを遡ればいいか、瞬時に察する。 そことのやりとりを作家が信じているかどうかで、作品はがらりと確かなものになる気がする。 その感覚をこころから信じて、働きかけようとしているひとの作品を、私は賢い作品だと感じる。 テーマやコンセプトの有る無し、骨組みの確かさや社会性だけじゃなくて。(そのことも含まれるから、これらは排除されない)


久しぶりにバランスが良く、その均衡の上に感覚が収まらない、面白い作品を見たと感じました。