鍛錬について

中島智さんのTweet。

まさにその通りだと思う。
少しずれるけれど、何も意識しない動作に見惚れてしまうことがあるが、意識を始めた途端にそこには戻れない。一度その道に足を踏み入れたら無為の良さには二度と戻れないので突き抜けるしかない。
例えば踊りなら、高く飛べる/多く回れる/速く動ける(楽器演奏でいえば早く指が回るとかリズムが正確であるとかいうことだと思うけれど)という方向の鍛錬と、動きの密度や体の存在の仕方を煮詰めるような鍛錬とは難しさが違う。どちらかといえば前者は基準がわかりやすいから成果が見えやすいし、鍛錬の方法論も一定のものが存在する。でも後者は違う。よく観察して、よく考えて、細かい違いを見分け、ミリ単位でそこに近づいてゆく、進んでいるか進んでいないかよくわからない辛抱の要る作業だ。
鍛錬すればするほど、自分がしてきたことが否定される。何度も解体しながら、
舞踏は自分の体との付き合いで、彫刻や絵などのように他者(木や絵の具)が自分を否定してくれない。自分を解体できるのは鍛錬を積んでミリ単位の違いを噛み分けられることができるようになった自分だけだ。言葉もそうだけど、体も、誰もが自分のものとして持って自然と使えるようになった(と思っている)ので、自分へのジャッジは甘くなりがち。
本当の鍛錬を少しでも知っている人なら、「ありのまま」とか「素」「無」のようなものが、いかに難しくて、以前の自分はそのものについていかにナイーヴなイメージをいだいていたかということに気づくのだと思う。

…とか書いていて自分でも嫌になる。
言葉ではなんとでも言える。
そして、言葉で伝えたところで「わかった気にさせる」だけなのかもしれない。