* ことばの記憶、空間の認識



須賀敦子さんの『時のかけらたち』のなかで、ナタリア・ギンズブルグの、ことばからの連想で家族や過去の思い出を引き出す手法にこころ惹かれた。
以前読んだ須賀さん自身の作品にもそれはこころみられていて、すてきだった。
とらえどころのない遠い間隔にやわらかでかつ確実な手を添え、なぞりながら降りてゆくそのやりかた。

ことばと記憶、ということで思いつくのははじめて「だいだいいろ」ということばを知った時のことで、私はまだ1歳半だった。
近所のヤクルトやさんにうさぎ小屋があって、その網のなかでふわふわしたうさぎがにんじんを食べていた。
小学生くらいのお兄ちゃんが私に「だいだいいろだよ」と教えてくれて、「あれはだいだいいろか」と、口には出さなかったけれどはっきりとそういう言葉で考えたことを覚えている。
わたしはそれまでその色のことを他の名前で呼んでいた。
オレンジとか朱とか、そういうのじゃない、今の私にはもう思い出せない名前。
だいだいいろということばを知った瞬間からそれまでの名前は剥がれ、まるで最初から存在しなかったかのようにあとかたもなくなってしまった。
あの瞬間に、抜け殻にはもう二度ともどれないように、それまでの世界からも放り出されてしまったような気がする。

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あのとき東側からウサギ小屋を覗いていたのではないかという気がしている。
朝早くも夕方近くでもなかった気がしていて、太陽が左手前方から照らしていたように思うから。
といってもほんとうは、これは記憶ではない。
夢のなかの自分をみるように、これはのちのちに私が構成したそのときの場面なのだと思う。

でもこの、自分がひかりやひと、対象物の中や、それに対してどこに位置するかという感覚は、舞台空間を意識することに繋がっているのだろうなあという気がする。
わたしのなかにはかなり小さい頃からもののおさまりや逆に空白に対するはっきりとした好みのようなものがあって、そのこと自体を自分のからだの重みや密度のようなこととしてとらえている。
だから構図は線ではなく重さや濃淡だし、絵も球体になって、包む。
水平も、空白の密度ではかる。
長さから面積を求める、その反対の作業が行われる感じ。
斜めの分だけの三角形が見えて、面積のようなものから何ミリずれているかを瞬間に割り出す。

その空間に隙間が少なく、からだの余白を侵すほどに密集していることがとても苦手だ(このことを閉所恐怖症と呼ぶのかもしれない)。
過去は左で、未来は右。
左手は影のなかにあって下り坂。右手は明るい間隙。
左目は引き込むし、右目は開放している。
ひとの左側にたつことは苦手。