野村万作・萬斎・裕基×杉本博司『ディヴァイン・ダンス 三番叟』を見たメモ

ジャポニズム2018でパリに招聘されている野村万作・萬斎・裕基が演じる三番叟/月見座頭を見にエスパス・ピエール・カルダンへ。
舞台美術や衣装は写真家であり、古物の収集でも名高い杉本博司。

japonismes.org

今度一緒に舞台作品を作ることになっているJと。
Jは日本の文化に興味があって、日本に関わるテーマで舞台を作ろうとしているのでなにか参考になるものを見いだせるかもしれないと思って誘ってみた。

 
能から狂言、という流れかと思いきや、月見座頭から始まる。
その日は野村万作が座頭役。
長い杖を持ちそれで床をつきながら登場したのだが、その杖が床に触れる音のなんと繊細なこと。
長くて柔らかい棒をあんな風にひとつの乱れなく、控えめに整った、しかし存在感のある音で床につくことは、相当からだが精密に研がれていないとできない。
2、3回その音を聞いただけで、私の全身はぐっと舞台上に引き込まれてしまった。
今こうして書きながらも、あの姿と音を目の前に浮かべることができる。

言葉やうたによって物語は進むけれど、役者の動きだけが私にとってはくっきりと浮き立って見えてくる。物語の展開や言葉や音楽の調子の上下に比すると、それはいたって変化のないものだ。歩いて、座って、立ち上がって、酒を酌み交わす。
途中の舞いも派手な動きはなく、殆どが重心の移動と、扇を上げるのか下げるのか、体をどの角度で見せるのか、身体の移動の速度、と限定された動きの組み合わせに尽きる。
ただその一歩を踏み出すということ、重心が別の空間に移動する様にこれほど密度があるのだということに久しぶりに触れて、息もせずに見つめてしまった。
「歩く」というごく基本的な動きの中にその演じ手が芸に寄り添ってきた時間の全てがある。

舞台の端をまっすぐこちらに向かってきたり、中央の照明の中を丸く歩いたり、それを切るように横切ったり、さらに小さな円を描くように回り込んだり…そうやってただ役者が歩いているその姿を見ているだけで、こちらの身体が持ってゆかれる。
そこには多様なバリエーションがあるわけではない。
同じように見える動きの中に、限りない静謐さや、幾多もの感触が織り込まれている、そのことをただ見出したいというふうになって、自分が注ぎ込まれてゆく。
歩くという仕草ひとつは、あんなに洗練されるものなのだ。
自分だっていつもそうありたいと思っているのだが、こうして目の前にすると、いったいそこにたどり着くためのことを私はしているだろうか、と冷水を浴びたような気持ちになった。

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コンテンポラリーダンスは、クラシックバレエほどは様式美とか、フォームの美しさとか、ビジュアル的な洗練というところに縛られなくて良いものではあると思う。(もちろんクラシックバレエだって、現代のものは決してそこに縛られてはいないだろうからこういった言い方は少々雑だが)
いっとき、コンテンポラリーダンスは肉体の訓練をそんなに必要としないものと思われている時期があった。
演劇的なこと、インスタレーション的なことを取り入れて「踊らないからだ」でいることがすなわちコンテンポラリーダンスだ、というふうに。
確かに「踊らないからだ」というものには私も興味がある。いったい踊るということは何なのだ、目的も意味もないのに動くってどういうことであるのか、と考えて行った時に「踊らないからだ」というものがむしろ壁のように高く目の前にそびえている事実を常に感じている、けれど、「踊らないからだ」というものが何故ずっと踊ってきた私の肩を掴んでぐらぐら揺すぶるかというと、それは「そのからだを持っているそのひと」という時間の年輪こそがそこに意図せずにして表れているからである。
もし意図的に見せ物としてその「私が一緒に生きてきたこのからだ」のことをやろうと思ったら、そこには多大な意識が必要だし、この一ミリの動きはこれでいいのか、これで外から見て私が意図しているものが見えるのか、ということを突き詰めるには膨大な訓練が必要になる。
そういう訓練とか考えることをすっ飛ばしてただ「からだがあればダンスです」みたいなことには、私は、あまり興味を惹かれない。それは、自戒も含めて言うが、怠惰である。

(※私はよく「踊ってみたい」と言う方に対して「からだがあれば誰でも踊れるよ」と言うが、それももちろん本気でそう思って言っている。
けれど、それを観客にある目的を持って見てもらう、表現というかたちとして発表することはまた別の話。)

けれど逆に言えば、空間の中にわたしがどう居るか、時間を伸ばしたり縮めたりすることでどういう感触が外部に与えられるか、ということを普段から意識しているひと、勘の働くひとは、ダンスの訓練としての経験が浅くとも舞台上に身体を置くことができる、見ていられるとも思う。

 
芸術家と職人の違いはなにか、芸術家が職人から離れて失ってしまったものがあるとしたらそれははなにか、とよく考える。
職人が自分が扱う素材をよく見て、よく触れて、よく聞いて、その素材に教えられながら、発見しながら寄り添ってゆくように、全てを自分がコントロールできる、自分のビジョンのままにばっさり断ち切ってしまえば作品になる、なんてゆめゆめ思ってはいけない。
少なくとも私はそうであるべきだと考えているし、そういうものに惹かれる。
木や石や水や、例えば森にあるそういうものをちゃんと見れば、そこに何かを加えようなんて、とても思えない。
それでもなにかをそこに見出したい、そこから何かを削り出したいから何ごとかをやるのだけれど、そのことがいったいどういうことであるのか、ということを絶えず疑って、絶えずそのことに接する自分を研鑽することでしか、そこに並ぶことのできるものには近づかないんじゃないかと思う。
からだという素材は私のものであるけれど、自分が込めた思いや、見せようと思ったイメージなんてよほど訓練しないと体という物体には表れてこない、外から見て私が感じているものを感じてもらうことなんておいそれと到達できることじゃないのだから、自分のイメージに溺れずに奢らずに愚直に積まないとね。

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鼓と声、太鼓と笛もよかった。
笛は別として、鼓や声や太鼓は一見(一見、だが)音程にそんなにバリエーションがあるわけではない。
それなのに、ひとつひとつの音が鳴るたびに、なんというかどんどん細かいところに自分が分け入ってゆくような感触がする。
最初森を見ていたのに、次の音では木を見て、次の音ではその葉を見て、次は葉脈を見て、…というふうに。
どんどん感覚が細かく詳細に分割されて、ピクセルが細かくなってゆく。
音ごとに、どんどん世界が細かく見えていって、感じられていって、けれど全体の視点も持っていられる。
だから、永遠に味わい尽くせないような感じになる。
良い音を聴くと、わたしはいつもそんなふうに感じる。

杉本博司さんの舞台美術は、私にとってはちょっと過剰だった。
舞台上のからだと音とで、すべてのものはすでに想起され得る。
夜も、太陽も、月も、いかづちも、火山も、…それはあのからだや、一定でないリズムや、鼓と声と笛の組み合わせ、踏み鳴らす足の音で十分に描かれていた。
だから、それをわざわざ絵におこす必要がないのだ。
舞台上には十分爆発がおこっていたのでそれで十分なのだ。
観客の想像力を喚起する仕組みは、もう能の舞台の中にたっぷりと備わっている。
一緒に見に行ったJも、あれはフランス人のための演出なのかもね、でも私には不必要に思えた。と話していた。

ただ、最初に神さまが着物の準備を整えてこちらに向き直った時、その姿から繋がり広がる雷の絵は良い効果をあげていたと思う。
神様がこちらを見据えた時には鳥肌がたった。
まだ面をつけていないのにどこからか、こんな遠いフランスにも距離は関係なく、なにかが降り立ってきたように見えた。