* 「わたしたちは無傷な別人であるのか?」 チェルフィッチュ、永岡大輔さん



ニブロールとはしごで見たチェルフィッチュ。
素敵な題名。
何度も口に出して見たくなる。
「わたしたちは無傷な別人であるのか?」

感想を書くのがとても難しい。
『三月の5日間』で見た、どこにも置き場のない(もしくはどこにだって置かれる可能性のありうる)からだの感じが、より際立ったように思う。
けれどこの手法はあの作品特有のものであると勘違いしていたから、さかのぼって考え込んでしまうことになった。

そこに意味を見出すのは見ているひとの作業なのだなあということを痛感させられる。
私がそこから示唆されているように思うことも、つくり手がまったく意図しなかったことかもしれない。またはそう勘違いすると面白いという仕掛けが施してあったかもしれない。
なんらかの物語が流れているときにそのセリフとは一見無関係な身体が同時進行にそこにあるとして、ではストーリーを提示されていないダンスの舞台上の身体との違いは何なんだろう。
あれほどに、ひとつひとつの動きをしげしげと(ときにいぶかしげに)眺めることがあるなんて、それだけでちょっとやはりすごい、という気がする。

けれど実は『三月の5日間』が私のなかには強い印象をいまだに放っていて、今回は鮮やかな塗り替わりのようなものはなかった。
けれどなにか、もっと身近なこと、切り出しの幅を狭めたことで感覚は深くゆったりとした時間を持って受け取ることができたし、なんて難しいことをするのだろう、やっぱり岡田さんは賢く、感覚の機微の細かいひとだなあという気がした。

でも多分『三月の5日間』を見ていなかったらよくわからない、絶対素人じゃないのにどうしてああいう手法なんだろう?ってもやもやばっかりが溜まるような気もする。

誘ってくださったかたが『フリータイム』のDVDを貸してくださったから見てみようと思う。
多分、続けて見ないとまだ私にはうまく飲み込めない。


次回の公演『ホットペッパー、クーラー、そしてお別れの挨拶』のイラストを描いている永岡大輔さんは、私がドイツにいたときにたまたまその期間で友人の弟さんがパリのYukiko Kawase Galerie (Click!) にて「Jardin Secret(ひみつの庭園)」というグループ展をするというので、フランスまで行き、そこで面白いなあと思ったアーティストでした。
特徴のある手法なのですぐに分かったのだけれど、私がとてもこころが瞬間明るくなるくらいにへえ!って思ったのは、チェルフィッチュの芝居が残す感触と、永岡大輔さんの書いては消し、けれど消えない空間を共有して時間だけがまた次の空間を重ねる、という手法が、手をつないでいるように思えたところ。
同時に私が写真と空間と時間に対して抱いている感触がここにもある、というちょっとうれしい(勝手な)つながりでした。

芝居も見たいし、永岡大輔さんもチェックしたい。