ちょっと日記に帰る、フレデリック・ワイズマン『ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス』

このところ夜中の3時過ぎに目が覚めるようになった。そのあと二度寝をし結局は8時半あたりに起きるのだけれど。
今日は4時半過ぎに起きてそれから珍しく寝付けず7時近くまで携帯を見ていた。
ただでさえ受け取るのを待つ性質なのにSNSのような流れてゆくものを通じて面白みに出会おうとするのは間違いだ。Twitterはさもないものが流れてくる場所で(そこが良いのだけれど)大事なことをそこからつまみ上げようと待ち構えても時間を失うばかり。もちろん分かってはいるのだけれど、追い込むようにずっとそこに居続けてしまう。
追い込む?なにを、どこに?


Tak.さんの日記に自分の日記を話題にしてもらっていることに気づいて嬉しい驚きだった。

「日記って良いよね」という言葉を前よりも頻繁に聞くようになったような気がする。私もそう思っている。でも時々、ただ書き散らした中途半端なものを「そこが日記の良さ」ということにして自分の文章の質の低さを許しているんじゃないかという、目を塞いでおきたかった疑いの影が、膝あたりまでのぼってきているのも感じる。
とはいえどなたかの日記を読むのが好きなのは間違いない。「日記」というものの何を良いと思っているのかは相変わらずわからない。自分自身は体験し得なかった別の一日に触れることで、自分には知ることのない世界があると実感するのが単純に好きなのかもしれない。
せっかくMediumのブログをリンクしてくれているのにはてなに引っ越してしまったので少しだけ申し訳ない気持ち。


そして同じくしてヨイヨルさんが久しぶりの日記を書いてらっしゃるのを読んで、私も日記をできたらまた気軽な感じで復活させたいなと考えたのだった。

何かをするとそれに没頭して時間をかけすぎるのでほどほどに。『Good Doctor』のショーンみたいにタイマーをかけながらやるのいいかもしれない。(実際「ルーチンタイマー」というアプリを導入してみたけれど、アナウンスの声が大きすぎる。調整できたらいいのに)
宣言したところで続くわけでもないので、中断したり再開したりでかまわない。禁煙みたいに、絶対にやり遂げるぞ!と気張るようなものでもない。もし読んでくれている方がいたらそれも楽しみで書いてはいるけれど、所詮は自分のものだしね。

 

フレデリック・ワイズマン監督の『ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス』を数日かけて見た。
「未来に図書館は不要だと言う人もいるけど、それは図書館をただの書庫だと考えているからだ。現代の図書館は単なる書庫ではなくて、そのにあるのは人なのだ」という言葉が印象的。
市と結びついて移民の言語教育のプログラムだけでなく法的な援助をする場にもしようとしているのが驚いた。それから読書会の開催がされているのもいいな。
それから(少なからず多くの国が抱えている問題だと思うけれど)利権や思想の違いによって教科書が正しい歴史的認識を示していないことがあって、子どもはその歪んだ歴史を教え込まれてしまう。図書館に歴史的な資料や導きがあることはそれに対抗しうるものだということも。
うちの近くの図書館でも私の知らない取り組みがあるかもしれない。サイトをしっかり見てみよう。
もうひとつとても心に残ったのがユセフ・コマンヤーカの言葉。(詩で政治を意識するかという問いに対し)「詩の表面には政治は表れない。それは表面下に、詩が持つ感情的構造の中に織り込まれる。詩人は観察者であることから逃れられない。暗示的な表現をするから大きな可能性も生まれる詩のリズムの中にいると詩の持つ感情的な構造に包まれる。ことばは直接的だけど暗示にもなる。私はブルースの本質(暗示と大胆さ)に戻りたい。シンプルな言葉がいざなうより複雑な感情の場へ」(←ちょっと要約しました)
最後の方に引用されたプリモ・レーヴィの「物の作り方が人を定義する」という言葉も。