ふたぐ

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以前の自分のブログを見返す機会があったのだけれど、この頃はいとも簡単に言葉を書いていたよなあ(今よりは)、と自分のことながら、なんだかうんと遠いことのようだ。

自分が書いたものを読み返すのは恥ずかしいものだ。
今だって決して立派な文章を書けるわけではないのだし、過去の自分を「稚拙だ」とは言わないようにしたいのだけれど、でも時々「てえ」とのけぞってしまうくらい、恥ずかしい。

会社の行き帰りの道すがら、稽古帰り、眠る前にゴロゴロしながら、毎日のように日記を更新していた。
今よりずっと、文章に気を遣っていない。
今は、ほんとうにこれが私の感じたことを一番いい方法で言い表しているか、そしてそれが読み手に伝わるか、ということを、以前よりうんと考えながら書いているんだな。そのことが改めて良く分かった。
だから全然すらすら書けない。
でもむかしは、もっと壁にどんどん絵を描くみたいに、感覚を胸から取り出したらそのままてらいもなくひょいっと花を咲かせるみたいに、そこに置いている。
よくこんな表現が思いついたな、とはっとさせられるような言い回しがあったり、ごくごく狭い隙間に見事に読み手を引っ張り込むような流れがあったりして(でもこれは読み手が本人であるわたしであるから隙間にはまれる、ということに過ぎず、文章自体が見事なわけではない)、素直で狂っているなあ、とも思う。

言葉は人に伝える道具だから、伝えられなくては意味がない。
そういうことに臆病と言えるほどに神経質になったのは何がきっかけだったのだろうな。
まあ、アパートメントを始めて、多くのそれまでは知らなかった人と関わるようになったことが大きいだろう。
それまで知らなかったのに、まず最初に言葉だけで、顔を見ぬうちに文章だけで、自分の思いや真心を伝えなくてはならないんだもの。
言葉が足りないことに由来するちょっとの誤解や、私が間違って使った言葉によりその人を傷つけたりすることを、以前よりうんと恐れるようになった。
そして文章がやたやめったら長くなった。
それまでは、自分の感覚がそもそも他人とは共有されていない、という意識にやや欠けていたんだと思う。だから共通認識があろうとなかろうと、下地をすっとばして、勝手に飛躍すればよかった。
でも今は、まず自分の感覚が他のひととどのくらい離れているのか、どのくらい人は文章を隅々まで読み、どの深さまで汲み取るものなのか…そういう数々の疑いをつぶしてから、本題に入らなければならない(ような気がしてしまっている)。

以前の私の自由さというか、わけわからんさは貴重なものだったとも思うけれど、私がそれを過去のものとして、もう過ぎ去って失ったものとして残念に思わないのは、今の私のなかからそれが失われたとは感じていないからだろう。
自分がそういう風に「何かを失う」みたいなことが、私は酷く怖かったはずなので。
でもそうじゃないのは、言葉も踊りも自分のなかにある混沌の単なる発露であって、時間が経ってその表面が変わろうと、相変わらず止まれぬ混沌のままだとわかったからなのかな。
なにもかも変わるのだし、変わって流れていったものを手放しても、私の幹の芯はどんどん年輪を刻むのだから構わないじゃないか、と。