侵食する

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ミルクジャーに箸やスプーンなんかを投げ入れているんだけれど、このあいだ取り出した割り箸にうっすら、ちいさな宇宙人のアンテナみたいなカビがふわふわと生えていた。
うちの台所がカビる季節がきてしまった。
ここに来た当初はこんなに湿度を感じなかったのに一昨年から結露がひどくなり、屋根に穴が空いて水漏れがしたのをかわきりに、壁にたくさんカビが生えるようになってしまった。
しばらくは家にひとを呼ぶことができず(こんな台所を見たらきっと食欲を失くすだろう)、拭いてもストーブで乾かしてもすぐびしょびしょになる壁に途方に暮れていた。
やっと今年の春に台所を工事し、湿気を吸うように壁土にして、湿度でだめになった家具を作り変えたり、棚を増やしたりして心楽しい台所になった。いつもすっきりと乾いていて、気持ちがいい。
きっと今年はカビが生えないだろう。生えないで!と祈っていたのに…冬が到来してみたら、壁土だけではこの湿気には太刀打ちができなかった。
おまけに外壁工事が半年経っても進まないため(夏に1回工事人が来ただけで音沙汰なし)、外壁の割れ目から水が入ってきて、天気の悪い日には終始壁が濡れている。
せっかく苦労して、楽しくて使いやすい台所にしてもらったのになあ。
台所を使うたびにストーブを出して乾かしたり、結露した窓を拭いたり、カビが広がらないようにラベンダーオイルで壁を拭いたりしている。

だからうちは、いつもしみしみと寒くて、洗濯物もストーブをつけないと乾かない。
やれやれ。

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あえてそのことをやる、
ということをしていないと、そのことはできなくなるんだなあ、と思う。
苦手なことでも必要があってそれを強いていると、ある程度はそれができるようになる。
得意なことでも、ずっとそのことから離れていれば、道すじを忘れる。
何にでも共通して言えることなのだから改めて学んだことでも何でもない。それなのに何故その都度、「そっか」とはじめてみたいな顔をしてびっくりしてしまうんだろう、わたしは。

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寒いから家のなかにガジュマルを引き込んで、テーブルの近くの棚に置いている。
テーブルとその棚が触れ合っているから、私がテーブルでものを書いたりしてふと顔をあげると、ガジュマルがさわさわと揺れている。
私がぎゅっとペンを握って書けばガジュマルは激しくゆらゆらするし、ふうっと息を吐くあいだに、ガジュマルはまた静かになっている。

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聞いているときには口をつぐんでいる。
アパートメントのみなさんの書くことを読むようになって、わたしは日記を全然書かなくなった。
いろんなひとの思いや、人生や、考えていることを読んで、指でまさぐって、より分けて、何度もなんども噛んでいるうちに、言葉とかことばとか思いとかおもいとか物語とかものがたりとか感触とかかんしょくとかが体の中に積み上がって、飽和して、でもものじゃないからそれはからだの外に転がり出していかなかった。
私の頭は相変わらずここにあって、耳もあたまから出っ張ったりしていないし、喉だってつむじを突き破って伸びてはいかない、なのに言葉ばっかりがどんどん重なって、目に見えない風船みたいにからだ以上にぱんぱんになった。
口を開いてももうわたしの言葉を扱えるリミットはとうに消費されているから、またぱくんと閉じるだけだった。
読むたびに、なにかを話したくなる。
でも、わたしの胸のなかにあるこんな感覚を適切な言葉にするにはばかみたいに時間がかかってしまう。
歯を磨いたり、買い物に行ったり、仕事に行ったりしなくてはならないのに、何も出てこない口を開けたり閉めたりばっかりしているわけにいかない。
自分が話さなくてもいいんじゃないか、たまりこんだものを、なにか言葉にして出したいなんていうことを忘れてしまえばむくむく膨らんだ自分をひきずって歩く必要もない。
そうして書く習慣を手放したら、書くということが、うんと遠のいてしまった。

以前書いていた日記を読むと、まったく子供じみていてはずかしい。でもなんだか色々素直にそのままを書いていて、ときどきこれは本当に自分から出てきたものだっけなとどきりとさせられる。
いまのわたしは100回推敲してどんどんダメにして、結局誰にも見せない、ぎちぎち何度もなぞられて毛羽立ったり骨折したりした言葉の墓場みたいなものばっかりが、胸のなかに溜まっていっていて、ときどき押しつぶされそうになる。
ぶはーーっとため息を吐くと、ガジュマルくんがそよそよそよ、と揺れてくれる。
明日は他の植物くんたちもおうちに入れなければ。
余計部屋の中が湿気てしまうけれど、寒いもんね。