西陽の記憶

ふと去年の今頃の日記を読み返したら、いちばん最初の記憶のことが書かれていた。
その記憶は、わたしの感覚がこんなにも「色」というものに結び付けられているそのはじまりを示しているようにも思うし、そして他のひとと共通した言葉を得る前に持っていた自分だけのことばがあったとことを思い出させてくれる。
目の前に金網があって、近所のお兄ちゃんはわたしの背後にいた。地球の丸みが、急だった気がする。ウサギはやわらかい灰茶色のにおいがした。
左手の方にいた子供は誰だろう。
頭に残っている映像に目をこらしても、今の私にはわからない。


仕事のお使いの道でまっすぐ前から西日を浴びてその光を手で避けた時に、子供のころは陽にやけることなんか何も気にしないで歩いていたことを思い出した。
そしてもう二度と、どんなことを払っても二度と子供には戻れないんだということを知った。
子供の頃の記憶は取り戻せないものばかりだし今つかまえているものも反芻するたびに手垢がつく。
もう私は12歳にも戻れないし、4歳にも戻れないんだ、と。
そんなこと知っていたけどそのことに初めてほんとうの意味で気付いて、そのあまりの重たさに一歩も動けなくなってしまった。
ようやく歩き出せた頃に、だから私は子供を育てたいのかもしれないなあ、ということを考えた。
子供と一緒にまた新しく世界を見て、世界をもういちど知りたい。
自分が立派なお母さんになることなんて想像できないけど、子供と一緒に生きていくことはできるな、と。

この前のオーディションの帰り道にずいぶん様変わりしたその道を通った。
あの時のように足を止められたりはもうしないけど、西日を浴びたあの日の私は幽霊みたいにあそこに焼きついている気がする。