夏の途中から終わりまでの日記

8月21日

行つ戻りつしながら再読していた『なしのたわむれ』をふたたび読み終える。
何かを見たり聞いたり考えたりしていること、そういうぼんやりとした接点のことを、言葉という限りのあるもので留めてしまうことへの疑いがありながらも、このお二人の文章を読むと、言葉を以ってこそ辿り着ける場所があるのだなと思い知らされる

(p63のウィリアム・ブレイクの詩)
今『分解の哲学』を平行して読んでいるので、儚く短い命のものを永遠に留めておこうとする意識が生むちぐはぐさに、目が止まる。

須藤さんがp58で引用しているリルケの

この地上こそ、言葉でいいうるものの季節、その故郷だ。

美しさに打たれる。
肉体をこの地上でこそ授かった私たちは、言葉というものを手がかりにして世界をわたっている。私たちが見て、聞いて、心に留めようとするもの全ての故郷はここで、つまり、私たちの故郷はここだ。
文字と違って音楽や踊りは残らない。でも残らないことでかえって人の記憶やそれを見たときにその人が浮かび上がらせた何かが、残るものよりも長くそこにとどまるともいわれるが、通り過ぎたときに吹く風が、ときどきこころをさらってゆく。

つくる人は、本人にその意思さえあれば、実践なしに思考するものが時として罹患する観念論の病から自由でありえます。

この実践は恋愛も同じだと言うふうに16章の最後で小津夜景さんは言っていて、なるほどと思った。


どの手紙も味わいぶかいのだけれど半ばあたりから須藤さんが急に核心へとハンドルを切り「ものがたりのはじまり」で放たれたものに応えるようにその後のやりとりが濃密になってゆく。変化した風向きに、わたしもはぐれないように必死でのめり込む。
皮膚のその下が覗くようなやりとり。
私が特に好きだったのは「ものがたりのはじまり」「間の呼吸」「ふりだしにもどる」。
著者ふたりの、ことばというもの/音楽というものへの洞察に触れられる喜びとともに、自分の見えているものの限界、のようなものに思いを馳せる瞬間も多くて、どきどきした。

 

9月4日

しばらく思いを巡らせていたストレッチクラスの先行きのことをやっと決めた。
興味を持ってくれている人がいるのだから幸せなことで、どうやったらみなさんが気軽に楽しく参加できるかな?ということと、自分の生活のペースとのバランスの間のことを考えていた。
独りよがりになってはいけないけれど意味があると自分自身が思えないと続けられない、かといって無理もせずやってゆけることは大事、そのあたりに落ち着いた。
細かくクラスを分けることも考えたけれど、それはおいおい。

 

9月17日

アイスランドで知り合った方たちから、フィンランドで一緒に作品を作りませんかというお誘い。
彼らとクリエイションをするのは楽しいし、きっと良いものができるだろうという予感もあるのだけれど、旅費や滞在費のこと、それからその期間仕事ができないことを考えると今は難しいということになる。

SNSの短い動画でフランス人(私の知らない方)が「働いても生活保護を受けるより350ユーロほどしか多く稼げないから、働くのはやめて生活保護を受けて毎日楽しく過ごしてます」という動画を投稿していた。
もちろん生活保護を受ける理由は様々だと思う。一見してその理由が分かるわけではないし公開する必要もない、必要な人にひらかれていてほしいし、受給に関して他人が判断すべきではない。
でも明らかにこれは「みんな、働いたら損だよ!国からお金をもらって遊んで暮らせる方法教えるよ!」という内容であったし、コメント欄も「酷い動画だけどこれがフランスの実態だよね」という意見が多い。そうだよね。分かってはいるけれど改めてがっくりする。
周りでもぎっくり腰が2年も治らないと言って診断書をもらってお給料だけもらっている人や、手厚い失業手当を色んな書類を偽造しながらもらい続けている人の話をよく聞く。さらにシステムがあるならそれを利用するのが権利だとさえ言う人もいる。フランス人らしいといえば、まあフランス人らしい。
憎むべきは個人ではなくてこの社会システムなのだけれど、そのための補填を真面目に働いている人たちがしている現状を知っているので(この2年間で社会保障費はどんどん上がっている)なんともやりきれない気持ち。
中小の自営業者は現在/未来を通して保障もなく、かといって働けばはたらくほど国に取られて、生活できない状況になってきている。
抜け道はもちろんある。
でもそういう手を使いたくなくて真面目に働いている人ほど割を食うなんて、なんだか気持ちが塞いでしまう。

 

9月18日

社会を呪っていたら(半分冗談だけど)体調を崩した。
呪いは跳ね返ってくるのね。知っていたけど。
この国に住んでいるのが間違いなのかもしれない、と考えたりもする。

 

9月19日

個人への思いと、その個人の背景にある社会の仕組みに言及することを分けて考えないままでいる人が大勢いるな、とSNSを見ながら思う。それはそれ、としておくのはそんなに難しいこと?情緒の波というものはそんなに人間を大雑把に包み込んでしまうのか。
真ん中でどちらも保ちながら漂っていられない、待っていられないから、それならば情緒が動く方(楽な方)に流れようということなのか。

 

9月24日

Twitterでフランス語の本を読むコミュニティに参加して3ヶ月目。
今まで一冊を読み通すのが難しかったけれど、他の方の感想を読んだり進捗に励まされて、3日は空けずに本を読む習慣がついてきている。  
今読んでいるグカ・ハンの『Le jour où le desert est entré dans la ville(砂漠が街に入りこんだ日)』は日本語訳を読んだこともなく、1ヶ月で読み切れるか不安だったけれどなんとかついてゆけている。  
それにしても、コミュニティの方の読み解きの深さや緻密さには毎回驚きや気付きをもらう。フランス語の読み方というよりは、物語/記述をいかに読むか、読み取った/感じ取ったことをいかに言葉にするか…つまりそもそもの「本を読む」ことの基本だが、私には思いつきもしなかったこと、考えが及ばなかったことに言及されていて、それに触れると物語がいっそう豊かになる。
いつか読書会を開催してみたいと夢想していたけれど、とてもじゃないけど主催できるような力は私にはないのだった。(別にがっかりしたりはしていない)
ほんとうに参加してよかったな。1年続けたら12冊読めるのだという事実にもわくわくする。

訳者の原正人さんの日本語版のあとがきがこちらで読める。

そっか、8人の私、なのか…。


MUBIに登録しようかどうか迷っていて(久しぶりに映画を見られそうな気がする)、ひとまず7日間の無料体験をしてみている。
見たいものはたくさんあったけれど手始めに日本映画。『羅生門』を見る。
フランス語字幕ならどの映画にもたいていついているけれど、入会してまで見られるかはちょっと分からない。週に1本でも見られたらいい、くらいの気持ちもあるけれどそれも追いつけるかどうか…ドキュメンタリーみたいなものと違ってやっぱりまだ映画のフランス語にはついてゆけていない。
いつまで上達しないつもりなんだ、フランス語。


そういえば、ちょうど一週間前から痛かったお腹がやっと落ち着いてきた。
自分を焦がすほど腹を立ててはいけない。