読み間違いが新たなものがたりを生む

去年の秋頃から、1ヶ月に1冊フランス語の本を読もう!という試みに参加していて、今はル・クレジオの『海を見たことがなかった少年』を読んでいる。
語彙も文法もそんなに難しくはないのだけれど、いまはなんだか日本語のものを読みたい(というよりも今ならいつもより本をすらすらと読めそうな)気がしていて、2月に終えるはずだったこの本もまだはじめの章をやっと半分終えたところ。
日本語で読んでいてもたまにとんでもない読み違いをして別のストーリーを作り上げてしまうことがあるが、フランス語だとなおのこと、すぐにはその間違いに気づかず、摩訶不思議な世界にはまりこんだまま読み進んで勝手に胸を打たれたりしている。作家もびっくりであろう。
我に返って読み直すと自分が色付けした景色とのギャップに愕然とするが、こんな勘違いもフランス語が上達したら(するのか?)できなくなるのだから、楽しんでおく。

今回も、
Mondo s'était couché en chien de fusil sur la terre, la tête appuyée sur son coude.
という表現があった。
これはDeepLによると「モンドは地べたにうつぶせになり、肘に頭を乗せて寝ていた」となっているのだけれど、私はfujil(銃)、appuyer(押さえる)、coude(肘)という単語が目に入っただけで何か暴力的なことが起きたと思い込んでしまった。
この章はMondoが気に入っているとある家の描写がされていて、夕暮れにそのエントランスを金色に染める光の色が変わってゆくさまをMondo少年が寝転びながらうっとりと眺めている。ヤシの葉が壁をこする音や、虫の声や羽音、肌を触れる風の描写が緻密でおだやかで、白昼夢に誘われるような場面。
そこに突然入り込んできた暴力に心臓がどきっとする。
この数章前に、Mondoのような身寄りのない子どもや犬を連れ去ってしまう大人がこの町にはいるらしい描写があったので、ついにそのひとたちに捕まってしまうと思ったのだった。
でも次の行を読むとMondoはひとさらいなどには遭っておらず、相変わらずうっとりと眠っているだけだった。
se coucher en chien de fusil(体を丸めて寝る)という表現を知らず、son coudeをだれか他の人の肘がMondoの頭を押さえつけた(実際は「頭を支える」)のだと勘違いしたために私のなかではここだけ急に暴力表現となった。
私がいかに文法を無視して、単語だけで文章をイメージしてしまっているかが分かる。
やれやれやれ、である。
いつ私のフランス語は少しでも上達するのですか………

恥ずかしいことなのになぜブログに書くのかと言えば、もしかしたら同じように語学に苦しんでいる人がこのブログを読んでふふふと笑ってもらうためです。