『砂の子ども』、家の一部になる

やっと体調が回復した。
なんとなくの不調が続くとだんだん「具合が悪いような気がしているだけかもしれない」「休むことに慣れてしまっただけかもしれない」と思い始めるのだけれど、こうして元気になってみるとわかる。確かに具合の悪い一週間だった。

久しぶりに湯船につかりながら本を読みたかった。kindleで読むこともできるけれど紙の本が良かったので本棚を眺めると『砂の子ども』が読みたいようだった。一度読んだ本だったけれど、手がそこに向いたのだからそのようにしてみる。
ゼラニウムやベルガモット、ラベンダーやティーツリーオイルをお湯に混ぜ込みながら体を伸ばして、ぼおっとするのに飽きたころに本を手にとる。
女性に生まれたが男性として生きざるを得なかった人物の苛烈な人生を「講釈師」が物語るという、モロッコを舞台にした話。
始めのページからふと「夢読み」のことを連想したり(これはもちろん村上春樹の新刊が話題だからなのだけれど)、埃をかぶった陽のささない部屋の匂い、めらめらと体を這いのぼる視線のイメージが今まさにからだに輪を描きながらにじりよってくるお風呂のお湯とリンクしたり、シェフシャウエンの丘の上から聞いた礼拝の時間を報せる放送を思い出したり(そのくぐもった祈りの声はまるで、窪地の中に溜まった青い家々をゆっくり浸してゆくようだった)。
物語は本だけに宿るのではなく、語った、聞いたものの身体を浸し棲みつくものなのだということを思う。

「講釈師」は主人公の物語(物語が書かれた日記)を自分のものであるように感じる。

この秘密の本は、短いが熾烈な人生を送った人間が、長い試練の夜を経て書いたものであり、岩の下に隠され、呪いの天使によって守られていたものなのだ。友よ、このノートは、回し読みしたり、人に与えることはできない。純粋な精神の持ち主だけが、読めるのだ。心構えのできていない者が、不用意に読めば、ここから発する光で目がくらんでしまう。おれはこれを読んだ。そして、そういう人々のために、読み解いたのだ。皆さんは、おれの夜と肉体を通じてでなければ、これに近づくことはできない。おれが、この本なのだ。

普段軽々しく多くのものに触れ、いつのまにかそれが自分を通過するに任せてきたが、そんなことが平気なわけがなかったのだった。もしかしたら一生かかってその人のなかにひたひたと溜まっていったものごとを、近頃の私は軽率な態度で触れて、自分の中に生まれた揺れの行き先を見届けぬうちすぐさま口に出して誰かと共有できたような錯覚をする。
今の私にはたくさん読みたい本があって、それを読みきれないという考えにほとんど溺れかかっている。けれど、本当ははこんな風に、これしかないと思うようなものと向き合うべきなのだと知っている。愚直に、私にこそ、私にしかそれはできないと信じて、取り憑かれてしまわなければならない。わたしはこれを肉に刻みたいし、それで変わってしまっても構わないと思うようなものごとへのひたむきさには「私なんかが」とか「こんなことをしていることは正解なのか」なんていう考えは縁がない。

誰にも明かされずに、沈黙したまま土に埋められるものが、確かにいまの世界にもあると思う。
十年前ならそういうものもすべて私は知っておきたいよと思ったかもしれない。または、そういう喪失を感傷的に見送ろうとしたかも。
8ページしか読んでいないけれど、今日はこれ以上読み進めなくてもいい。

お風呂にお湯を浅くはって、寝転んで耳まで浸かるのが好き。
そっと沈めば耳の穴のところにはちょうど空気が抜けないまま溜まって、簡単には水が入ってこない。
水に耳を入れた途端に壁の中の水や空気の流れが、階下の人の声が、面している道路を走る車の振動がくっきり聞こえるようになる。普段は気づかないけれど、私は家に包まれているし、壁や床や天井を通じて振動を共有しているのだ。水に入ることによって建物の床や壁の一部に入り込む。
隣人が何を話しているかまではわからないし、私の興味はそこにはない。道をいっぽん挟んだところにあるパン屋さんの会話が聞こえたりはしないかと耳を澄ませるけれど、当然そんな遠くの音は聞こえない。ではいったいどこまでの音が聞こえているんだろう。耳を頼りに歩いて行こうとするけれど、やっぱり触れることができるのは家に触れているものだけみたいだ。
私は普段立っていて床から離れているから、もっと耳が床に近い猫や犬は、地面を通じていろんなものとつながっている感覚を普段から切らさずに持っているのだろうな。