平均律、音のせかいのこと

ピアノの調律をしているひとが書いた本を読んだ。
平均律の成り立ちについて、知らなかったことを知った。
何百年も昔のギリシャのひとは、どうやってオクターブ音が離れていると振動数が倍になる、とわかったんだろう。
とか、音楽の知識がまるでないからやっぱりまだちょっと読み取れていない部分がたくさんあるけど。

ことばも音も、ひとが感覚からすくいとってそこに定めてあげる、という最初の過程は同じなんだな。
平均律はもっとそこに数学の法則が入ってくるのだけれど、それはあとからの話として。
その時代や社会によってどのような感覚をよしとするかは変わるのだろうけど、でも確かに最初にあるのがただ、美しいとかしっくりくるとか、そういう感覚であるのだなということをあらためて考えた。
そして「これは、いい」とするその感覚の範囲はある程度普遍的だということが不思議でもあり、でも、それが同じ動物の仲間なんだから当たり前なんだなとも思う。
鳥は歌のようなものをずっと歌っているけれど、歌に対する美意識のはかりのようなものは生存に関わるのだし。たとえば。

分類されていないものが見当たらないような気がする現在に生きているからなかなかむつかしいのだけれど、頭からそれを取り払ってただはじめから見いだすところにぽつんと立って想像をのばしてゆくことは、たのしい。
世界をはじめて見るみたいでどきどきする。


耳がとてもよかったら、どんなに素敵だろう。
文字に色がついて見えるかわりに、私は耳があまりよくない(気がする)。
テレビの電波の音は聞えるけど、低音は骨の振動で判断していたりする。
ひとの目や口を見てことばを聞き取っているし、電話もすごく意識を集中して見る、みたいなことをしないとわからなくなる。
音楽をずっとやっても、みのらなかったのはそのせいかもしれないなー。(←いいわけ)
わからないけど私にとって耳は受けとる器官じゃなくて、なにかを発している感触のほうが強いから、ほかのひとはどうなんだろう。


調律の際、ほんのわずかな音の幅をぴたりと合わせたときに音は音として聞えなくなる、という表現をしていた。
音同士がぶつかるうねりが消える瞬間を聞き取ることができるなんて、そんな世界をもしかして一生味わうことができないかもしれないなんて残念。




ピアノと平均律の謎―調律師が見た音の世界