* 左の目の逃げる猫へ

はなしことばの、そのまた奥まった部分で話ができるひとはそういない。
試しに筋道よりも色がまさったことばを投げかけてみる。
それを含んでくれたら、手探りでさらに一緒に降りてゆく。
自分だけではひかりを当てられなかった部分を歩き、自分には拾い上げられなかったことばを掬いあげる。
その旅の行程を記しておきたいと思う。
感触に、記憶に、立体のまま。

ただしさは自分にとってのただしさにならざるを得ないし、選んだ先の幸せやふしあわせについては自分で責任をとるしかない。価値についてもそう。
だから感覚を確かに連れて行かなきゃいけないんだよ、と思う。
覚悟しなきゃいけないことはたくさんあるけれど、素晴らしいと思うものに触れたときや幸せを受けたときにあなたがどれだけ強く輝くかを知ってる。
その涙がどのくらい長いみちのりを経てきたかも。
それがどれだけ澄みきっているかも知ってる。
澄みきっているから濁りを赦せないこともわかってる。
だから、こんな、振れ幅の大きいいい加減な私がそばにいることがちょうどいい。
ひたすら浄化されつくしちゃったひとなんて別に全然楽しくなくて、私はその闇にも矛盾にも興味があるのです。
塵があるから燃えるのだし、浄水におさかなは棲めないのです。

自分の輪郭なんてわからない。
自分の踊りがどう評価されるかなんかわからない、それ以上に。
だからねずみみたいにかき集めて、やっとなんとなく片鱗が見えて、それでも巣穴は暗くてよく見えない。
芯にある確かなものなんてなくて、探すことしかできない。
でももしもうすでにそこにあると信じたとしたら甘あまな私はそれにしがみついて歩かなくなる。
だから漠然としたままでいいし、矛盾はどんどんふくらませればいいし、わたしってなんなんだろうと可能性無限大にしておけばいいんじゃないか。
失敗も成功も受けちゃった傷も手に入れた価値あるものももうおひさまが沈むまでに捨てて新しく挑むしかないんじゃないか。
そんな気がするよ。

幸いにして私は最後の砦のようなところが非常に強いのだけれど、それは強くあることが私にとっては一番のしあわせへの近道だ、と思いこんでいるからかもしれない。
強くあれば、自由でいられると思っている。
遠くまで飛べると思っている。
もしかしたらわたしだけじゃなくて、包んで運ぶことも。

きっと自分が頭で考えているよりも、ちかくにある。
あなたの音で踊ったからかな。
うまく説明できないけど私はもしかしたらあなたよりもある意味では真相に近いところの手応えを感じているかもしれない。
少しずつクリアになってきている感覚を遊ばせて、認めて、頼ってもいいんじゃないかな。
そんな気がする。

こんなにひとみの通るひとはほかにいなくてわたしはいつも改めてそれにこころを揺さぶられる、
だから、それを塞がないでいられるといいと願ってる。