眠気、可哀想な自転車、『ブルースだってただの唄』

1月20日

子どもの頃から勉強が苦じゃなかったので、大人になってから友人が資格試験のために図書館で勉強をすることに付き合った時にその人が机に向かって3分も起きていられないことに驚いた。勉強しようとするととたんに眠くなってしまうらしい。数時間滞在したが彼の勉強は少しも進まず、私はそんな様子を興味深く見守りつつ、本をもくもくと読み続けた。
このところフランス語の本を読んでいるとすぐに眠くなってしまう。つまらないわけではないのに、3行くらい読むとだんだんぼおっとして起きていられない。
きっと誰かが私を観察していたら不思議で面白いのかもしれない。

 

19日は公共交通機関のストライキがあったので道路がひどく混んでいた。
ただでさえ近年市内への車の乗り入れが制限されているから、パリではすぐ渋滞ができる。電車もバスも動いていないストライキの日は車移動の人が増えて、道はさらに混み合う。少しでも前に進もうと、信号が変わる直前でも交差点に突っ込んでゆくからどちらの車線も進むことができなくなる。そこになんとか割り込もうと車が斜めに突っ込んで、自転車や通行人まで詰まってしまうことになる。
普段は乗り慣れない人も自転車や電動キックボードに乗るから、交通ルールも信号もあったものではない。歩行者にとっても危ないし、車も立ち往生してさらに渋滞をつくることになる。
鳴り響くクラクション、怒号。みんながイライラしている。イライラするから余計に運転が荒くなる。
そうしてますます渋滞が広がる。

オルセー美術館へ行く途中、ちょうどペール・ラシェーズの坂を下りきったところで信号無視の電動キックボードに突っ込まれてしまった。
かなりの衝撃だったのでバイクに轢かれたと思った。
キックボードは私がびっくりしている間にすうーっと通り過ぎて行ってしまった。大丈夫?ともごめんねとも言わずに。
腕や服を引っ張って「ごめんくらい言えば」と言えばよかったのだけれど、驚いてどきどきしていたし、やっぱり小心者でもあるので咄嗟に怒ることができなかった。
あとからよく見てみたらスポークが折れて車輪も大きく歪んでしまっていた。
ごめんよ、自転車。

幸いSは自転車を直すためのキットも持っているから修理してもらえそうなのだけれど、修理のための部品を買うのがまた一苦労。

「ネットで見つけたものを注文する」という現代社会で簡単に行えるようになったことが、フランスではどのくらい大変かと言うと、まずは少しさかのぼって、やっとネットで見つけた商品を受け取りに行くところから説明せねばならない。

①ネットで「在庫あります」という商品を注文しお金も払う。
②配送は予定通り来ない、もしくはその日一日待たないといけないのでやめて、店舗に取りに行く選択をする。
③店舗に行くと商品がない。在庫は他の人に売ってしまったのだ。
④仕方がないから再度取り寄せてもらうことにする。
⑤取り寄せた連絡が来ないのでしびれを切らせて電話してみると、もう商品はとっくに来ていると言う。
⑥ため息をつきながら取りに行く。
⑦商品を引き取り家に持ち帰ると、注文したものとは別のものだったりする。またはちょっと/大いに壊れている。
⑧交換しに行くと、ネットで買ったときの最初のレシートと手元にある商品が別のものであることで店員とひともんちゃくある。
⑨なんとか返品し、交換してもらう。
⑩家に帰って取り付けようとすると、付属の部品が足りなかったり、壊れていたり、別の品物の付属品が入っていたりする。
⑪連絡しても返信はもちろんない。
⑫また店舗に行って延々と交渉する。
⑬やっと取り付けたものの、不良品で1ヶ月で壊れてしまったりする。

こういうことが大げさでなく60%くらいの割合である。

去年半ばあたりからどうにも気持ちが晴れないのは、誠実に、まじめに生きようとすればするほど割を食う国にいるからなのかもしれない。

 

1月23日

『ブルースだってただの唄』を読み終える。
多様な背景を持つ数人の方に話を聞いていて、「黒人である」ということから受けた人生への影響はさまざま。
生活環境によっては自分が感じていることが黒人差別によるものではなくただ個人的な問題によるものにすぎないと思い込みなかなか解決にいたらなかったのだけれど、おとなになってみればそこには個人では解決できない社会の仕組みに要因があったことに気づいた、ような例も多かった。
こういうことはジェンダーの問題や、他のマイノリティが抱える困難とももちろん通づること。

私が自分が無知であったなと感じたのは、差別によって未だに続いている経済的格差や犯罪率などの問題を改善するためには教育を普及させることもそのひとつの道だと思っていたが、その教育は結局のところ白人が白人の社会の中で生きるために組み上げられたシステムでもあるので、その教育を単純に享受することに対する忌避感もあるということだった。
いや、それは考えてみたらそうだ。
そもそも教育は今ある社会システムの中でなるべく多くの人がうまく生きられるように(言い方を変えるなら多くの人がうまく現行の社会を支えることができるように)考えられたものなのだから、「白人が白人の社会の中で生きるために組み上げられたシステム」に組み込まれようとすることと「黒人であることのアイデンティティ」の間に齟齬がないわけはないのだった。

読み終える少し前、暴力のシーンに気持ちが重くなって手が止まってしまった。行き場を奪われたまま暴力を受ける地獄。
でも読了後は、自分の記憶の重苦しさよりも他のことを考えていた。
ここに登場する方たちと比べて自分の行動を顧みたということもあるけれど、どんな状況に置かれたとしても、ひとりの人間としてどうそれに立ち向かうか、それに尽きるのだということを思ったから。
「辛かった」と漏らすことがいけないことだとは思わない。でも、もしその段階を過ぎて、自分はいつまでもその場所に留まっていることを良いとは考えていないのであれば、そこからいくらかでも進んでいるとするならば、取れる行動は他にもあるはず。

 

1月24日

自転車を直してもらって昨日から乗っている。
返品交換に手間取った車輪は結局再度買うことをせず、スポークを交換したり歪みを補正してもらうことで元通りに。
体に対して少し大きな自転車を買ってしまったので(コロナを理由に試乗させてもらえなかった)ハンドルが遠く大きかったので、買い換える。
ブレーキパッドも替えてくれた。
快適。少しスピードが落ちたけれど。車輪の歪みが完全に直っていないのかもしれない。

いくつか進んでいる(または始まりそうになっている)クリエイションの、それぞれが全く違うタイプで興味深い。