* 芽吹き、重い読書、広がる波紋



やっと冷たくかたい空気がとけた3月の末のある日、いっせいに若い緑がまぶしくて目を見張った。
そして今日は2度目の眩しい朝。
小学校を取り囲むコンクリートの塀を覆う苔までもつやつやと眩しく、なにもかもが新しい朝だった。

ドイツの春を思い出す。
その年は異常な寒波が押し寄せた年で、-20度以下になる日も何度かあった。
毎日雪で、おひさまはすぐ沈んじゃうし朝は暗かった。
春が近づいたある日いつも通っている裏の雑木林の灰白色の風景ぜんたいがほんのり黄緑色に煙っていた。
樹の一本いっぽんの芽吹きは、近づいてもほとんどわからないほどなのに。
樹が、芽吹きに先駆けて緑色の呼吸をしているみたいだった。

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どうしてこのごろ本を読めないのか、少し分かった気がする。
今触れたいものはそのひとがほんとうに感じて、からだの芯に落とし込んだ(落とし込みたいと願った)ことなんだと思う。
そういうものじゃないなら体力を使わない、こころも動かないことでいい、と思ってしまう。
星野道夫さんの本は読みたい。
けれど星野道夫さん特集の雑誌は読みたくない。
岡本太郎さんの書くものは大好きなのに、アラスカ歴史をたどるような記述の部分でひっかかって読み進まなくなっている。

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このごろ好きになった雑誌の編集長さん(Sさん)のブログを読んで、これは、と思った。
私の場合「なんとなくつかめた気がする」と得た感触をただ漂わせている時間が長い。
もしかしたら繰り返して検討することで、生まれたときのやわらかさや大きさを失って固定されることを恐れているのかもしれない。
ふさわしい定着のさせかたに、きっと自信がないのだろう。
けれどやっぱりそのままの曖昧さで放っておくと、いつのまにか薄まって冷えてどこかに紛れてしまう。
Sさんが言葉にしてくれていることはそんなふうに私はとても固定できない、けれど確かにそこに影を見ているもののような気がした。
それを読んだことで確かにわたしのもやもやの中に足の踏み場のようなものが出来た気がする。
ちょっと霧の晴れた指標のような、手応えのある場所。
自分の感触をことばにしてくれている!と感じたくらいに感覚は近いものだったけれどやはり与えられた言葉でしかないから、何度も繰り返しその場に立ち寄ってみなくては。

自分の考えではないものに触れることはとても大事だけれど、自分の方角がわかって初めて受けたものごとがきちんと定着して繋がるのだとも思う。
もちろん、雑多を集めたって時間の無駄とばかりは言えないと思うけれど。
ああ、違うかな。
雑多であっても、ひとは繋いでゆくのかもしれない。
そんな敏感さを実はみんなちゃんと持ち合わせているのだもの。