8月5日から11日の日記

8月5日

なんとなくお腹が空いて、財布を手にパン屋へ向かう。北駅付近のパン屋は軒並みバカンスに入っていてずいぶん大回りをしてやっと6軒目でクロワッサンにありつける。バターが多めで重たいクロワッサン。
1週間の仕事が終わり、同時にひとつ仕事がはいる。
1時間だけピアノに集中する。どこかでピアノをみかけるたびに練習するだけなのでいつまでも完成しない。20年前は楽譜を見ながら鍵盤の前に座っただけで自然に手がそこに向かったのに、今は左手の楽譜を「ええと、ド、ミ、ソ、だからソシャープか…」などと数えている。20年かけて習得したものを、20年かけて忘れたのだから仕方がない。

 

8月7日

ストレッチクラスを終えてからカチューシャにご飯をあげに行く。どうしても見てもらいながら食べたいようで、器にたくさん残っているのに「ご飯もらってないよーー」という顔で鳴く。ひとしきり一緒に過ごすと満足したのか窓から飛び出て、隣の生け垣へ消えてゆく。
こういう時も私が先に立ち去るのは許さない。「行かないで」と目をさんかくにして抗議してくるか、小さくて丸い手をぴんと伸ばして足首に取りすがってくる。たまにちょっとだけ噛む(ズボンや靴を狙って。皮膚を噛もうとはしない)。
自分が満足してから、自分の方から立ち去りたいのだ。

去年切り損ねたイチジクの木がものすごい大きさになっていて地面に濃い影を落としていたので枝先を切り落としてもらった。
どこからともなくカチューシャが帰ってきて、遠巻きにその作業を見ている。竹やぶの涼しいところに寝転んで満足げに目を閉じている。別に直接遊んでもらえなくてもいいんだね。側にいるだけで安心するのだろう。
この上なく美しい姿をしているのに、砂や藁の上に転がって体をこすりつけるので、つやつやの毛がすぐくすんでしまう。いつの間にかまたきれいに舐めとって、つやつやに戻っている。

 

8月8日

裸足のまま庭に水を撒いたら足が冷えたので、柔らかい毛布で足を包みながら少し読む。
入り口は好調だったのにだんだん文章が頭に入ってこなくなる。哲学的な言い回しや語彙を、そろそろ逃げずに深く理解しようと務めなければ。このままでは読むのに時間がかかるばかりだ。気晴らしに別の本を読む。
カチューシャはずっと私の側にいる。少しでも目を離すといなくなるかもしれないのが心配なのかもしれない。
ちゃんとご飯もあげているし、急にあなたを放ってどこかに行ってしまったりはしないからと言い聞かせているのに。
ながらりょうこさんから『ねこと私とドイッチュラント』第6巻が届いていた。階段をのぼる間も惜しくすぐに読み始めて、いやいや、まずはお礼を言わなければとお便りする。アプリですでに読んでいる話であるのに、はじめて読んだみたいに胸がいっぱいになる。

『砂漠が街に入りこんだ日』を原書(フランス語)で読みはじめている。
メトロで演説をしたり小冊子を売る人を頻繁に見かけるが、今日読んだ部分にはそういう人が登場した。乗客はずっと携帯から目もあげず完全に彼を無視し、冊子を差し出された男性はそれを無碍に突き返す。その人は結局警備員に取り押さえられ、冊子はメトロの床に散らばり、踏み荒らされる…
日本語で読めば30秒くらいで通り過ぎるシーンだが、文章を理解するのに10分15分かかるのでその間重たいシチュエーションの中に浸りきりになってることになる。冷たく重い沈黙、彼の目が涙に濡れてくるようす、まっさらな小冊子が足跡で塗りつぶされてゆく場面…だんだん自分の胸を踏みつけられているような気さえして一度浮上し、深呼吸をした。
本はページをめくると物語がひもとかれてゆくけれど、ここでは文章単位で同じことがおこっている。分からない単語をめくるたびにその文章の意味が開かれてゆく。
日本語で読んでいたらこんなには辛い気持ちにならなかっただろう。私だってメトロにそういう人が入ってきたら積極的に話を聞いたり冊子を買ったりしない、携帯やら本を眺めているふりをするに決まっているのだから。

 

8月9日

今日はカチューシャはさほど私にべったりすることもなく、どこかに出かけたまま帰ってこない。
昨日喧嘩をしていた猫と友達にでもなって遊びに夢中でいるのなら良いのだけれど。


8月11日

吉村萬壱『哲学の蝿』を一気に読み終えたあと、抜き書きしたものをまとめたり再考したりする時間を取っていなかったことがずっとひっかかっていた。
つるつると麺のように面白く入ってくるのに、重たく揺さぶられた。余計な感傷を入れず自分の偏りをも俯瞰して世界をそのまま見ることは実はなかなか難しいことだという気が最近ますますしているのだけれど、薄暗くて醜いものへの恐れと同時にある、額に汗を浮かべて頬を赤らめながらそれに手を伸ばしてしまう、というような、そういう濁りをもただそのまま、「良いも悪いもなくそういうもの」とただ見つめているのがよかった。ドライでもなくウェットにでもなく、卑屈にもならず達観でもなく。
あらゆるはかりはただ自分が世界を見るための、自分のためのものさしに過ぎないのに、それが絶対だと思い込む傲慢さ。傲慢なくせに自分に自信を持たなかったりして、まったくちぐはぐだ。
でもそういうことも断罪せずに「いやあ、変だな」と面白がっている、それは軽やかさとか達観というよりは、とにかく必死にやぶれかぶれになりながらも生きるということをせざるを得ない、時にそれは悲痛で、滑稽であるということを身を以て知っていることを感じさせられた。
一時間くらいかけて抜き書きを整理したり、考えたことをメモしてみたけれど、読んでいた時に辿る旅とはまた違うものになってしまうな。
本を読みながら付箋をつけてあとからまとめるやりかたが生む距離は、多くのものを落としているかもしれないと改めて思う。時間はかかっても読んでいる間に都度、旅の経過を記すべきなのかも。

哲学の蠅