* 新芽、『マリア・カラスの真実』

液について景色を見下ろしたらぐんと緑が若くなっていた。
申し合わせたようにやわらかい芽が出てきている様子はなんだか運動会のようで、朝から微笑ましくなる。

『マリア・カラスの真実』を見た。
あらゆる時代のインタヴューシーンが出てくるのだけれど、こんなにひとの目はそのときの境遇を語るものか、と思う。
強い光を放ちながら覗かせない闇の中にある瞳も、時代を追って見ているうちに溶解してゆく。
絹の手袋で掬わなければたぶん折れてしまうだろう。
あるアリアのシーンに涙が止まらなくなった。

歌や踊りや、鍛錬の必要なことに対してひとつの曇りも許さないようになると、もしかしたら人生のいろんなことが絞られてゆくのかもしれないという気がする。
カメラの窓が絞られてゆくように、見えているものはくっきり姿をあらわすけれど影も濃くなってゆく。
見えかたということではなくて、気持ちのピントのようなもの。

芸術に身を捧げるひとは幸せになれないというようなことをよく言われるけれど(実際そういうところもあろうと思うけれど)、「華やかな栄光や恋愛がいつか終わり晩年に孤独になる」というその縮図だけを見ればそれはそうかもしれないとも思うし、けれどそんなことを言ったら多くの人生をそう見ることもできるのではないか、とも思う。
その人生の終わりを知りながら時代を追えば、どんなふうにでも伏線をあてはめることはできるんじゃないか。
慰めじゃないんだけどね。
だって、そのひとはその一瞬いっしゅんを生きたわけだし。

5月の舞台で椿姫を踊るのだけれど、マリア・カラスのものを全部聴きたいな。
タイトルロールになるって、特別なことだと思う。
ひとりのヴィオレッタ像になるわけだから。
(私はヴィオレッタをやるわけではないけれど)5月までにゆたかになるといい。