* いきつけ、デュッセルドルフ、新しい手法



おいしいから食べてみて、と連れて行ってもらっておなかいっぱい食べた。
もう歩けないくらいおなかがいっぱいだったし、ずっと残って夕飯も食べられなかったけれど、ただなんだかぼんやりと幸せだった。
毎日のふところのなかにお邪魔させてくれるというやさしさ。

ぎゅうぎゅうに求めたり求められたりすることを知ってはじめて、隙間に手をつけずなるべくそのひとの体温であたたまるまで待つ、ということができるんだろうな。

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知っている方がドイツに行っている。たぶん今デュッセルドルフだ。
デュッセルは一度だけオーディションのため訪れた。イタリアのカンパニーのオーディションだったと思う。
仕事は手に入らなかったけれど友達ができた。

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ひとを撮りたいような気がしています、自分なりの方法が見つかるといいなと思います、と言ってみて気がつく。
なににも決まった方法なんかないのだ。
そのひとを緊張させちゃうなら今そういう表情しかとれない(そういう表情が撮れる)ということだし、そこには自分としては失敗であると感じる今、純然としたそのときの関係があるだけなのだ。
自分の選択の精度やバランス感覚をそんなに信じられない。おそろしくむらがあるからだ。もしくは、勘に傾いてしまう。
そのせめぎあいのなかを縫ってゆくしかない。