* 走るひとびとを眺め、追った日曜日

日曜日、東京マラソンを応援しに行きました。
40キロ地点に大智くんの書いた「走る」の文字でどーんとのぼりを立て、それから寛平ちゃんに渡したいと思っているジャンボTシャツを立てて。

私はひたすら写真係。
慣れない、お借りした一眼レフを抱えていたということもあってか、何か緊張していたみたい。ずっと自分の中に閉じこもって、レンズから走る人のことばかりを覗いていました。
カメラを抱えているからこそできるコミュニケーションというものを初めて感じた気がする。
カメラは人間の目よりも強い部分があるから、見ていることを気付かれやすい。
そして気付いたと同時に私の目的(=写真を撮りたい)が分かる。
わたしがあなたに興味があることがとてもすんなりと伝わる。
それを受けて微笑んだり手を振ったりしてくれるひともいれば、もちろん意識だけを残してなにくわぬ顔で通り過ぎてしまうひともいる。
私はまた別の、こころを止められるひとが視界に入るのを待つ。

一瞬で走り去るひとを撮っていたから、もしかしたら一瞬でピントを合わせることが上手になったかもしれない。
そのひとのからだのスピードにカメラのスライドと左手の回転をあわせればいい。
ただ、そこを繋いでおけばいい。

たぶんそのためだと思うのだけれど、帰り道から今朝にかけて、今まで痛んだこともない頭の部分が痛くて辛かった。
知らないうちにぐっと張っていて、頭の皮が麻痺したようだった。


おととい鷲尾さんの写真展に行って、鷲尾さんとお話をして、自分が今撮れるもののことについて、当然かもしれない部分に立ち返ったような気がしている。
現時点の自分にしかできないこと、そうせざるをえないこと、めまぐるしく変わること。