崔在銀 展―アショカの森/原美術館



・アショカの森
入ってすぐの部屋がうろこのように重なった板で埋められている。
遠くの窓にむかって少しきつめの坂。
入り口から少しだったら入れますよ、と言われて入ってみるとぎしぎし音をたてて、この下には何があるんだろう?と想像する。
アラスカのトウヒのことを思い出す。
もしかしてこの下には古くなった落ち葉がぎっしりつまっているんじゃないかな、って。

・another moon
真っ暗で細い部屋なのでちょっとびくびく入る。
覗き込んだとたんにからだからざーっと力が抜ける。
まるで秘密のたからの場所を覗き込むみたいな行為だった。
ほんものの月は見上げるけれどこの月は覗き込む。
ほんものの月はみんなが見ているけれどこの月は私だけがのぞいている。
最初水に満たされているとは思わなかった。
ほんとうの月と違って水に満たされて、樹が風に揺れている。
凹凸も逆。
色のない影だと思ったら葉のみどりも青空もあった。

誰とも共有しないで自分だけがそこをのぞきこむ、というのはなんだかいいな。
あの部屋が真っ暗だったのもよかったのかもしれない。
もうわたしは誰にも(誰の視線にも)邪魔されることなく、完全にそれを見るものになれるから。
ぽつんとひとりっきりで、でもそれは与えられたもので、なにより私にはひとりきりで見るものがそこにあるという贅沢。
好きなひとを閉じ込めてときどきその部屋を見るってこういう感じだろうか、と考えてみる。
生理的なことぜんぶ無しにして、童話みたいなこんな行為。

この感覚を舞台に生かせないかな。
お客さんは固定しない。
私はある部屋で一日を過ごす。
会社に行く前にある人は覗き、まだいるかな?って帰宅するときまた覗いてくれる。
私はまだそこにいる。
ほんとうになんでもない私であることもあるし、むずむずしたらすごく踊ってもいい。
暇だったら一日中見ていてくれてもいい。
ご飯を食べたり居眠りをしたり本を読んだりするけれど。

・ビデオインスタレーション
ひっかくような弦の音がしていて、まっすぐ伸びる針葉樹のてっぺんはびっくりするほど揺れるんだと知った日のことを思い出した。
その日は青空で、空気がきりきりと冷たかった。
あんなに背が高くて細いのによくしなるんだなと眺めた。

・幻想の裏面
階段にあったのが好きだった。
横の長さが238cmもあって全部をいっぺんに視界にいれることができない。
視線を右から左に移行するとそれだけで時間を感じることになる。
なんだか霧が流れているように見えて不思議だった。

この展示の作家さんのコンセプトノートにかいてあった(これを読んだからこの展示がみたくなったのだけれど)、
“ここでの<樹>のイメージは時間を横切る存在であり、永遠に向かって手を差し延べながらも衆生に限りない安らぎを施す深遠から湧き立つような慈悲の存在でもある。
これは古代から今日に至るまで変わらない人間と樹との関係であり、もう一方ではその永遠たる長さにより、かえって世の中のすべてが時間の変化を通して変わっていく姿を見せてくれていることでもある。
ボルヘスは、「人間のあらゆる精神的な体験は時間の体験に還元される」と言っている。<樹>はまさにそのような精神的な媒介者なのである。”
という部分を一番感じたのがここかもしれない。
写真を撮るときにやっぱり記憶のことと時間のことを考えるし、踊るときには今まさにここで踊っているという現在のことを考える。

・森はいつからそこにあったのでしょうか?
樹は育つのに時間がかかる。
ずっとそこにいて、人間より長く生きて、そして朽ちて、そこからまた新しい若芽が出る。
ひとの生死はなにかもっと区切られているようなイメージがあるけれど(隠されて目にする機会が少ないし、それが個人の意識の終わりだからだろうけど)、樹はずっとめぐるいのちのように見える。
…ようなことを考えていたらこのタイトル。

・アショカの森
もういちどanother moonを見てから入り口に戻り、受付のかたに思い切って、この勾配の下にはなにがつまっているんですか?と訊いた。
実際にはこの坂を作るための構造的なものしかないみたいだったけれど…。
でもじつはこの板はもともとお家を作っていた板だそうだ。
釘を使わずに建てられた家が解体されて、その板を丁寧に洗って展示しているそう。
だからぎざぎざだけれど丸いんだ、とあちこちを触ってみる。

「アショカ王の5本の樹の森」という故事(薬効のある樹、果実のなる樹、燃料になる樹、家を建てる樹、花を咲かせる樹の5本を植えて、それを自分の森として見守りましょうという話)からこの展示の着想があったということなのだけれど、この最初の部屋の窓の外に「果実のなる樹」(はっさくの樹)をこのために植えたんだって。
この展示が終わってもおくりものみたいにはっさくの樹はずっとこの庭に残るなんて素敵だなと思った。
おくりもの、ということばからまた、ひみつのたからものを覗くことを思い出した。


ひとつずつを見てまわるうちに感覚が積み重なり、一周することでそれが閉じる。
とてもいい体験だった。