『フラニーとゾーイー』 サリンジャー

何度もトライしたのにいつも残り3分の1くらいで読むのをやめてしまっていた。
サリンジャーの文章もしくは野崎さんの翻訳は、私にとってある状態にないとすんなり入ってこないもののようだ。

フラニーみたいに、なにもかにもがちょっぴり許せないような受付け難いときがあったなぁ。自分の友達や親や兄弟でさえ。
そして自分のエゴに自己嫌悪を覚える。
私が接するなにもかもに、透き通るほどの潔白を求めてた。
自分のことは棚にあげて。
でもそんなことを求めるのは実はただ遠ざけたいということに等しいのだ、私はほんとうはそんなのいやなんだ、と気付いたのはいつのことだろう…と書きながら、その境のことを私はよく覚えている。
大人になっても生まれ変われるんだと知ったとき。

自分のなかに存在する矛盾に、いつか頭が狂っちゃうんじゃないかと、小さい頃夜中によく泣いた。
世の中で一番恐いものといったらそのことだった。
大人になったらきっと一緒にこのぎざぎざも成長して、エイリアンみたいにいつかからだを突き破って出てくるんだろう。
いや、恐いのは、そんなことになってもまだ私が生きていること。
私がそのとき選ばなきゃいけなくなることについて。

きっとこうして今みたいにかたちにならないからただやみくもに恐かったんだろうな。
でもやみくもに時間や世界は明るかった。


最後にゾーイーがかたちにしたそのことは、ドイツの北の町で読んだ本のことを思い起こさせた。
それから星の王子さまのことも。
たぶんまだ私のそのもの、は、輪郭がもやもやしている。
だからいろんなものとつながるのだろう。

フラニーとゾーイー (新潮文庫)