* 鮮やかな、もうひとつの宇宙のわたし。

金曜日に図書館で借りたのは『密やかな結晶』と大江健三郎の暴力に関する対談集(ソンタグとのものがあったので)、オンダーチェとカーシュとウィンターソンと岡崎京子。
ばらばらな選択だし、岡崎京子とオンダーチェ以外は初めて読むひとばかり。

たくさんの物語やたくさんのこころの中を通り抜けられるから本を読むのが好きだ。
けれど今まで、このすべてがほんとうに自分のものでないことにいつもこころを痛めてきた。
限られた時間と私という輪郭が触れることができる世界はあまりにも小さい。
量の問題だけじゃなくて、縦横無尽に、四次元に。
地図にしたとしたら、まったくちいさなぎざぎざなんだろうな。
でも突拍子もなく鮮やかな私とはかけ離れたもう過ぎ去った時間の文章を読んでいたら、これを私の記憶に重ねちゃえばいいんじゃない、ということをふと思った。
からだには限りがあるけれど、こころとかそこに付随する記憶とか時間とか感覚には行き止まりがないのだから。
そうやってできる記憶はほんものではないけれど、だからどうだっていうんだろう?
私のほんとうの記憶だってひっぱりだされたりまたしまわれたりするうちに嵩が増えたり擦り減ったりしているのだもの。
まったくかかわりのないことだ、という姿勢を捨てようと思う。
せっかく読んで、擬似体験をしているんだから。

自分がどこに向かおうとしているのか、見えないことがある。
自分がことばにして、こう、と決めたことで自分を縛ってしまっていないか?
ひどく頑固であるのは私の芯じゃなくて、発したことばの方だったりしないだろうか?