旅を思い出す本のこと

須賀敦子さんの本は異国の霧に覆われていていつも開くとヨーロッパでことこと過ごした時間のことを思い出す。
長い電車の旅の間に彼女の本を読んだことも関係しているのかもしれないな。
ベルリンではいつも友達がいたけれどバレエのレッスンに寝坊してもう誰も家にいなくてもくもくひとりでサンドイッチを食べている時とか、少しでも町を見ておこうと歩くときとか、そしてベルリンから地図も持たないで他の国にひょいと出かけてしまった時とか、あの何か地面と自分の重みのともなわない感じ、こころだけが駆け足で実際の時の流れを宥めようと浅い呼吸をしている感じ、あのぴんと張った毎日はいつも孤独のことばっかり考えていたように思う。
同時にたくさんのことが層になって流れて、いくつもの気持ちにひきさかれた。

たったひとりで獲得したことは大きいな。
もうそれが誰かがすでにどこかで言っていたり教えてくれていたりするようなことでも、それでもやっぱり改めて自分でそこまでこつこつと登ってたどり着かないとだめなんだなあと思う。

小さい時、私は星とか宇宙の謎がなかなか解けないことがとても歯がゆかった。
私が生きているうちにいろんな謎が解けてほしかった。
おじいちゃんになるまで研究したひとは、その研究したことを20歳くらいの若い研究者に全部伝えて、若いひとはちゃんとそのおじいちゃんの続きをやれば良いのに、そうしたらもっと早く色んなことが分かるんじゃないかなと思っていた。
そういうふうにはいかないんだと大人になって分かったので、もう私が生きているうちにたくさんの謎が解けるとは思わなくなったし、昔みたいにそれをかなしいと思わなくなった。

いまかなしいと思うことはもっと身近で、ちいさなことだ。


空港で、男の人と女の人がしっかりと抱き合って泣いていた。
激しく、でも声も出さずに。
ふたりがどういう関係なのか、どうして泣いているのかわからなかった。
ただお互いのかなしさだけが固くほどけなかった。

泣いてないて、疲れて、そのうちお互いの腫れた目を見て泣き疲れたね、って微笑み合ってそれから別れたのだったらいいのに。

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ずっと、自分は音楽には入り込めない、音楽がこっちを向いてくれない、と思い込んでいた。
いや、音楽のもってくる感動があまりに純粋で、言葉にも色にも形にもすることができないのを、ひたすら恐れていたのかもしれない。
言葉の世界に近づけば近づくほど、音楽からは遠ざかった。
~須賀敦子『ヴェネツィアの宿』


ヴェネツィアの宿 (文春文庫)