ふたたび孤独のこと



「我々が一人でいる時というのは、我々の一生のうちで極めて重要な役割を果たすものなのである。或る種の力は、我々が一人でいる時だけにしか湧いてこないものであって、芸術家は創造するために、文筆家は考えを練るために、音楽家は作曲するために、そして聖者は祈るために一人にならなければならない。しかし女にとっては、自分というものの本質を再び見いだすために一人になる必要があるので、その時に見いだした自分というものが、女のいろいろな複雑な人間関係の、なくてはならない中心になるのである。女はチャールズ・モーガンが言う、『回転している車の軸が不動であるのと同様に、精神と肉体の活動のうちに不動である魂の静寂』を得なければならない。」
~『海からの贈物』 アン・モロウ・リンドバーグ

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ひとの少ない住宅街や公園ではなく働き、動いている街のなかをひとりで歩くと、なぜかとてもどきどきする。
なにか自分が忘れ物をしているような、なにかに追われて焦っているような。
こころをなんとか落ち着けて平らに並べ、ほら、なんにも不安になるようなことはないでしょう?と言い聞かせてもまた心臓も、思考も、はやあしをしだす。
友達に教えてもらった公園から大通りへと風の抜ける気持ちのいいカフェで光に包まれてもどきどきは鎮まらない。
ゆったり椅子によりかかって読もうとかばんのなかに大きな本を入れてきたのに、ふとした拍子にこころが逸れ、携帯を開いたり閉じたりしてしまう。


たったひとりで歩くときにしか手に入らないものがある。
こんなどきどきもそのひとつだし、なにげない光や風に気付いたり、見ているものとはなんの関係もないことがらがふと頭を占領したり。
自分がこうしてここにひとりで歩いている浮遊しているような現実感とか、すれ違うわたしと同じひとりひとりの個人である他人の、同じ時間にありながらどこか乖離したり重なってしまったりしている錯覚とか、止め処なく展開してゆく出てゆかないひとりごととか、それをふっつり切る制御のやりかたとか。

ひとりで歩いているといつも思い出すことはデンマークのちいさな港町をもくもくと歩いたことで、あのとき靴の先についていた雪が今新宿を歩くわたしの靴の先にはついていないことがときどき、時間をおかしなふうにゆがませる。


デンマークからベルリンに帰るとき、バルト海を進むフェリーの甲板でどうしてひとり、あんなに泣いたんだろう。
ひとり、を想うときにかならずこころにのぼってくるあの出来事は、わたしにとっておそらく決定的なことだった。
説明のつかない、なにがなんだかわからない感覚だったからこそ、あれは間違いなく確かなできごとだったといえる。
さみしくもかなしくもなくて、ただそれは生まれてきた赤ちゃんの産声のように爆発的におとずれた。
おそらくなんども対面してあたらしく更新してゆくことになるであろう場所の、いちばんの核心部分に、わたしはあのときなんの準備も意識もなく、突然結ばれたのだろう。
未来を突然見てきて今に戻ってきたひとのように、ときどきあのことを思い出す。
ながい時間をかけてもういちどその場所へ近づいてゆくことを確信しながら。

もうすでに持っているもの、含んでいるものにあらためて逢いにゆかなければならないなんて、ひとってなんてめんどうでいとしいいきものなんだろうか。