『砂の女』 安部公房

途中で読むのを止めた本は何冊もあるけれどほんとうに具合が悪くなって止めた本はこれと『残酷な神が支配する』だけ。
(残酷な…のほうは今だに続きを買うことすらできなくて7巻までが本棚の奥ふかくに封印されている。あの本をいつか最後まで読めるのかなぁ?)

私はからだの自由を塞がれること恐怖症なのだと思う。
閉所恐怖症なのかと思っていたけれど、どちらかというともがくことすらできない場所や状況が我慢できない。
想像するだけで空気の匂いが錆臭くなって肺が酸素を求めてあえぎたくなる。
その肺にいっぱい砂の匂いや粉がぎしぎし詰まってたくさん脂汗をかいた。
途中何度か眠って眉をしかめてまた起きては読み…を繰り返した。

砂自体のイメージは美しい。
岩から同じ大きさに削りだされ運ばれ絶えず全体の形状を変えるそのイメージは乾いた空気を含んで軽いし、整っていて清潔。
それがあそこまで粘っこく圧迫し重たいのはアリジゴクのようにもくもくと砂を掘る女や住民の異質な空気ももちろんあるけれど、主人公が逃げようと画策するそのもがきは私たちにも身に覚えのある、どこにいても何かから逃げられないといった感覚に繋がっているからなんだろう。

今ふと気付いたのだけれど子供の頃はこんなふうに目の前をふさぐようなものに頻繁に出会わなかっただろうか?
小さかったり大きかったりはいろいろでも、その度に全力でもがき、叫び、裂かれた気がする…。
あれって全然物理的なものじゃないな…なんだっけ?
かたちにして思い出すことができない。
夢かなぁ…?それとももっと象徴的なことが残っているの?
もしくは単に私が閉所がきらいだから、背が小さかった子供時代は窒息させられるような気持ちによくなったというだけのことだろうか…。
…と、ちょっとずれたけど。

途中、悪夢のような閉塞感がふいにどこかへ去った。
砂に囲まれていても今までの生活に戻っても結局のところ自分は生きていること自体に塞がれている、自由などちゃちな繰り返しの中の幻想にすぎない…と気付くあたり。
苦しいのは穴のなかだから、軟禁されているからではないと気付いてしまって逆にどっとこころが暗くなってもいいはずなのになぜかからっと乾いた、明るい気持ちが差し込んだ。

森博嗣の作品に出てくる間賀田四季をなぜかふと思い出した。
外へ外へと向かえば最後は中心に戻ってしまう。だからといってあきらめて動くことをやめてしまうとその瞬間に消えてしまう。
この退屈な循環が生命の定義。

閉じ込められた男がとらわれた粘っこい恐れとか焦燥は、閉じ込めている住民たちの空気とものすごいずれがある。
はじめは読んでいても必死でそのことに気付かないが半ばあたりからそのことに気付く。
人間が、生きものがどこかに棲む、ってこんなものなのかもしれない、と。
どろどろの空気の中を掻い潜ってときどきそんな疑いがぬっとあらわれる。
そしてだんだんその影はおおきくなる。
自分で選んだかそうじゃないかの違いがそこにあるだけ。連れてこられてしばらくして逃げることを諦めたら慣れてそこに情がわく。
動物もそうなのかもしれない。
人間の生活に連れてきておきながら自然から、親から引き離されたことに哀れを感じるのは私たちの勝手でやさしく、甘い妄想なのかもしれない。
生きていることってそういうことなの?
もしかしたら。
どこにいても、たとえそれが自分の選んだものでも、なにからも自由になんてなれるわけがない。
私が得ていると思っているのなにに対しての自由?
…などと考えだして、うわー恐い。安部公房にしてやられてるわ、と気付きながらもずっとその虚しさが胸から抜けないのでした。

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“孤独とは、幻を求めて満たされない、渇きのことなのである”

砂の女 (新潮文庫)