* ジュリー・ニオシュ×岩淵多喜子 国際共同プロジェクト『No Matter』



すごく感じるところの多い作品でした。
ダイレクトに今自分が探りたいと思っている方法に目を向けさせてもらったというか…

和紙でできた白いがさがさした衣裳を着ている(というよりは覆われている、といった感じ)のダンサーがすっと立っている様子は、かたく静かな印象。アフタートークであれが花嫁衣裳だったことを聞いてなるほど、と思ったけれど私には裃みたいに見えて、日本の様式美みたいなものの持つ温度、時間の停止のような感触を受けた。
けれどギターが反復する音はやわらかで、永遠みたいで、それが繰り返しのなかで少しずつひずんで、どこかに溶け込んでゆく。時間の消失点のようなところへ。
白いふたりはそれを受け取らないみたいに見えた。
受け取るとしたらどんなふうにスタートするんだろう?壊さないでほしいな、でも無難であってほしくもない。
そんなことを考える時間が流れる。
じわじわと床から水が染み出してわずかに表面の光が揺れる。衣裳の紙も呼吸や空調で細かく震えて、気づけばいつのまにかダンサーが動きだしていた。
動きの間で紙が破れあらわになってゆくのだろうと思っていたら、最初に生まれ出てしまった。
へえ、と思う。
さっきまでの空気から想像していた展開ではなくて、急に水は羊水に、衣裳は命を包んでいて今は不要になった、体温を歴史に持つ生きものだったもの、に変わる。
生まれた肉体は水溜まりのあいだをもがきながら繋げてゆく。
なかなかひとりで立つことのできない人間の赤ちゃんを思った。
だけれど必死なばかりじゃない、どこか今生まれたばかりの自分と世界の距離をはかるような存在のしかた。

もうひとりのダンサーもやはり紙を脱ぎ捨ててゆくのだけれど、時間の経過が絶妙で、イメージはどんどん移り変わるのに感触はずっと離さないまま。
一度も、なにも切れずに保つ。

生まれ出て切り離された繭は濡れて破れて、散りぢりにされる。
そしてまたかたちにされて、おなじ白を保ったまま、今度はからだがそこに寄り添う。


生まれてまたゼロとかもしかしたら二度目のはじまりへ還ることをそこにみたけれど、彼女が蓄積してきたものは一体どんなもので、そこからなにがにじんでいたんだろう、と思う。
このごろ作家とか芸術にたずさわるひとのドキュメンタリーとか、文章とかがとても気になる。
彼女は水をどう思っているんだろう。
アフタートークでそれを聞きたいと思ったのだけれどあまりに漠然とした質問だと思ったし緊張してどきどきしすぎちゃったからためらっていたら質問コーナーが終わってしまった。
でも聞きたかったな。
彼女が水についてのどんな風景を持っているのか。
それが直接この作品と関わりがないとしても。
(でも彼女の作品に、彼女のなかの体験や思い入れが関係ないっていうことはないと思うから、だから聞きたかったんだけど)

水の音がとてもよかった。
血みたいに濃くもにおいもなくて、でも岩のあいだを流れる小川のようには澄みきってもいない。
ちょうど、体温よりほんの少し冷たくて、皮膚にわずかにしみ込むくらいの感触。

友人は彼女のつくる時間の触覚の心地よさを話していた。
私は、水との接点にそれを感じていたかもしれない。
でも考えてみたらそれは時間とからだの接し方と非常に近かったのではないだろうか。

+

ジュリー・ニオシュは月曜と火曜にももよおしものがあるみたいです。