『息吹』テッド・チャン/大森望 訳(早川書房)

「あなたの人生の物語」で好きになった作家さん。この短編集でも言語に関する小編「偽りのない事実、偽りのない気持ち」が心にひっかかった。

経験したことを何もかも記録する媒体装置を体に付属させることが当たり前になった社会と、文字という記録媒体に初めて触れる社会が交互に語られる。

おまえやおれの目には草が踏み荒らされた跡としか見えないところを見て、グベグバはヒョウがその場所でヨシネズミを仕留め、運び去ったのだと気づく」と父はいった。グベグバはそのときそこにいなくても、地面を観察するだけで、なにがあったのかを見てとれる。ヨーロッパ人のこの術も、きっとそれと似たものだろう。しるしを見ることに長けた者は、その物語が語られたときそこにいなくても、物語を聞くことができる。

文字で記すことを初めて経験したグベグバはそのしるしを見ただけでその場/その時代にいないひとにまで物語が伝わるということに惹かれる。
でもこの時にグベグバがイメージした「文字ができること」は、現実のものとはちょっと違っている(と私には感じられる)。彼はやはりあくまでも自分の世界の見方で文字というものを受け取ろうとしている。
(でもすぐに、

声の音、両手の動き、目の輝きも同時に使う。語り手は全身で物語を語り、聴き手は同じように全身で物語を理解する。そういうものはどれひとつとして紙には記されない。書き留めることができるのはむきだしの単語だけ。(略)単語だけを読むことは、コクワ自身の語りを聞く体験のほんの一部でしかない。

と、ひとが語るものとの違いを見抜くのだけれど)

ジジンギは、モーズビーが説教を書き留めているのが、記憶力の衰えのせいではなく、単語の特定の並べかたを探しているためだと理解した。求める並べかたを見つけたら、それを必要とするかぎりずっと、その並べかたにすがることができる。

そして単語は、しゃべることの部品というだけではない。考えることの部品だった。

この2つの部分、「すがる」や「部品」ということばづかいの意味について立ち止まる。

未来の社会では記録媒体のおかげで裁判はスムーズにゆくし、言った言わないといったことも解決される。自分の経験したことは逐一記録され、公に公開もされるので、記憶との齟齬はあとから検証できるから。
文字が入ってきたグベグバの村でも、昔から語り継がれてきた物語が、西洋人が書いた記録によって(人類学者のフィールドワークを指しているみたい)検証されて「真実」がはっきりとする。
でもどちらの場合も、果たしてそれがもたらすものはなにか?というもやもやが残る。
ひとが交わすことのなかで、いったい「真実」のようなものは本当に求められているんだろうか。「真実」のようなものはそこにそもそもあるのか?

人間は物語でできている。わたしたちの記憶は、生きてきた一秒一秒の公平中立な蓄積ではない。

なんだか皮肉にも聞こえる。
ある人が外部を見ることで、世界のようなものがそこにあるとすると、世界というものはひとの数だけあって、万人に共通のものではない。共有できない。その世界を、これまた共有できていると勘違いしている「言葉」というもので渡ろうとしている。
言葉によって私たちは考えるし、自分というものを建ててゆくのは間違いのないことだろう。自分の世界をどう認識するか、その橋渡しになるものとしては便利には違いない。でも自分の言葉が、そのまま変わらず誰かに手渡せると思い込むのは危険なことかもしれない。
こんな風に書くと「言葉や文化は悪だ」に偏っているように受け取られそうだけれどそうでもない。真実は誰にとっても真実なわけではない。けれどそこにはひとつの真実があるとして振る舞わないと立ち行かないこともある。

「記録を残す習慣をリメンが彼らに与えたわけではありません。彼らはみずから望んでその習慣を育んだのです。

わたしたちは、潜在意識で、エピソード記憶をみずからのアイデンティティの必要不可欠な部分と見なし、それを外面化したくない──本棚に並ぶ書物やコンピュータのファイル群の仲間入りをさせたくない──と思っているのではないだろうか。

このあたりは現代のSNSのことを思い浮かべる。

わたしたちはたいていの場合、許せるようになるまでに、いくらか忘れる必要がある。

何でも記録されて目の前に突きつけられたら「日にち薬」のように、だんだん記憶から薄れてゆくことで開放されるということがなくなってしまう。でもそれは全然未来のことじゃなくて、このSNS上でのことじゃないか、と思う。
しかもSNSへの反応は自分の体験のみならず、赤の他人の体験に自分の体験を引っ張ってきてしまうところがある。自分の問題がやっと薄れた頃に、また同じような(決して同じではないのだけれど)体験を目にして何度も何度も追体験する。

最後主人公は自分と娘とのライフログを公開して「私は果たして本当に悪かったのか」という判断を公にもとめているが、これこそ今のTwitterで行われていることだ。自分の求める答えなどそこからは帰ってこない。それなのに、この愚行を繰り返してしまう。

文字を使うことを覚えたグベグバの思考方法が次第に「西洋化」していくのも興味深かった。「あなたの人生の物語」でもそうだったけれど、ひとは自分を表すための形式が変化すれば見えるものが大きく変わってゆく。言葉の習得、コミュニケーションの範囲、体への意識、時間への意識、生活様式の変化…
ふだん自分の思考はこんなふう、と当たり前になって、無意識というか自動的に慣れた言葉や動きをしてしまうけれど、本当はその一瞬一瞬にわきたち、かたちのようなものになる瞬間があるはず。そのことばかり考えてると生活に時間がかかっちゃうけど…

 

息吹

息吹

Amazon