* 稽古後に考えたこと

表現をなんだと思っているんだろう、という友人のことばにどきりとした。
ひとごとではなくて自分にこそ突きつけなければならない問いだから。

ストーリーのあるものを踊るときにも、そうでなくても物語のようなものをどこかしらに浮き上がらせて自分の足元とのつながりを見出そうとするときにも、そこには出会いがあって驚きがあって孤独があって恐れがあって景色や時間の流れがあって…というドラマや感情が与えられる。
それをそのまま、孤独や喜びやたとえば水の中とか光が落ちている、というようなシーンを演劇のように演じることは踊りの舞台のうえではなんとも素直すぎる。
かたちとか表情ではなくて(パントマイムや演劇のようにではなくて)それを身体に落とし込んで、それを見たときになんらかの感触をもってそれが伝わる…というようでなければいけないのだと思う。
どきんとしたのはそこ。
思うだけで、その「身体に落とし込んで」というところがなんとなくもやもや、消え入りそうに曖昧だから。
きっとそうだといいのだろうという確証のようなものは感じている。
けれど自分の中に例がない。
いっぱい舞台を見ながらわたしはなにを受け取っているんだか。

たぶん身体表現というものは一時的には遠回りなものなのだろうと思う。
うまい遠回り(という表現が適切かちょっとわからないけれど)をしてはじめて、いちばん直に触れられる。
発するとき、つくるときに「直」だと、この肉体という強い殻はゆらがず、なにも染み出さず、表面的な体当たりをすることになる。
そういう伝達のしかたが悪いわけではもちろんないけど、今わたしがほんとうに届けたいのはもっとそのひと自身の感触を喚起するようなことで、おもてのことじゃない。
それはひとりが全て請け負って渡すものではないかもしれない。
配置が指し示すかもしれないし、小さな波紋が集まってはじめて波が生まれるのかもしれないし、丁寧にからだのなかを見つめることでやっとみがきだされるのかもしれない。
それぞれのシーンで、この動きがどんな可能性を持っていて、どんな必然性を持っているのか、分解してみよう。
きっと思わぬ発見がある。
それを共有したいし。


岡本太郎の本を読んだときに、怒った顔をして憤怒の表現とするなんてひどく素朴だ、というようなことばがあった(「素朴」という単語はこんなふうにも使えるのだ、とおかしくてすきなのだけれど)。
にっこりしながら憤れるのが矛盾を多分にふくんだ豊かな人間だし、それが芸術そのものではないか、というような。
その物語のなかで痛みを受けた自分と、演じている自分の間には意識の距離をかませていないといけない。
演じている自分も何もなくて火になってしまってはいけない。

そのことは前述のこととはちょっと違うけれども深く関わってもいる。
ということでメモ。