ここもきっと通過する場所



目覚ましをかけずに眠ったらびっくりするほど寝坊をした。
薄いカーテンのままだったのに雨もようの光は弱くて、いつまでもだるく部屋を照らさない。
半日を失くして起き、こうしてできることを限ってゆくのはわたしなのだ、と思う。

こんなにも考えたりことばにしたりしているつもりなのになにひとつ明確じゃない。
言い切れなければわかったうちには入らず、なんとか接続しようと思うのにうまくいかない。
いちいち受けたことに驚き、照らされた波は確かにおしよせてる。
けれどそれがただ、外からのお客さんのままなのだ。
自分のなかを見ていない。
横目で見て、ただ隣に座ってみただけだ。
友人のことばに一緒に頭をひねる。

偶然じゃなくて必然なのだ、ということばをずっと表面的にとらえていた。
わたしが世界から受け取れることは世界のおおきさほど多種多様に広がってはいない。
自分が持っているものとつなげてやっと、それを認識できるんだと思う。
だからつまり、偶然出会ったのではなくて自分のこころが針を出していることと一致しただけ。
シナプスのように自分のなかみがひろがり繋がってくればそれだけ糸に触れるものごとは増え、連鎖して震えるようになる。
なんにも、不思議なことなんかじゃなかった。

誰かのやりかたや誰かの考えを知ることはたいせつだと思う。
自分以外のなにかに触れることは通り過ぎただけのことを練り直すきっかけにもなる。
ヒントになるし、刺激にもなる。
でもそれはそれだ、という気がする。
どのみち自分が獲得できることは自分が噛んで味わったことだけだから、自分のなかみと手をつながないとどんどん親しくないお客さんばかり増えて違和感や焦りを感じることになる。
だから逆の見方をすれば、もらうものはなんだっていいのかもしれない。


帰り道の電車から見たけぶるあおの景色がとてもきれいだった。
あおがやっぱり好きなんだな。
水と、あおと、光(影も)と。
撮れないんだからもっと見つめていればよかった。
電車で座っていると、景色を見逃すことがある。