打ち寄せるのはくりかえししるしをつけるためであるのか



母の習字の先生の字がとても好きだった。
線のふちのかんじも、たっぷりとしたまるみも、くっと曲がるその粋な角も、予感させるようなおわりかたも。
どんなに気軽に書いた字もすべてよくて、字どころか、訂正箇所から引いた棒線いっぽんにもちからがあった。
ちからというのはぐっととらえてやまないような強さではなくて、道の横にするすると伸びているひなげしの組成のような、あたりまえに摂理と美しさを併せ持っているような、そんなちから。

自分がいなくなったらこの字はもう誰にも書けないことが残念だから、と習字を教えてらしたそうだ。
母もずっとその方に習っていたかったと思うのだけれど。


美術館にいけば絵や文字や映像や録音はたくさん残っているけれど、もうそれは二度と新しくはうまれない。
やっぱりこの肉体にしばりつけられている。
時間が、ねこそぎ持ち去ってしまう。
残酷に背中を向ける。
あたらしいものを迎えるために。

同じ時間に生きているひとを見たいし、話を聞きたい。
ひとを撮るなら、そのように向かいたい。