『草の花』 福永武彦

“廊下の片側だけ、降り込んだ雪が仄白くつもっていた。私は雪を避けて反対側を歩いたが、それでも草履の裏に、時々、さくさくと雪のきしむ音がした。”

“つまりギリシャはね、人間を信仰したんだ。まず神々を信仰し、次いで神々を創った人間を信仰し、最後には人間の創った法律や芸術や哲学などをも信仰したんだ。ギリシャ人は何よりも人間的であろとした、彼等の神々は人間の美しさの典型なのだ。”

“弓は当るために引くんじゃないよ、引くことそれ自体が愉しみでなくちゃ駄目だ。早気になると、引き起しから会までのプロセスの間じゅう、愉しむ前に、まず、今離せば必ず当るろいう意識が先行する、この意識が曲者だ。つまり君の魂が、君の手許にいないで、引き起しに掛るとふらふらと的の方に行っちまうんだな。弓に魂がはいっていない証拠だ。”

“人から愛されるということは、生ぬるい日向水に涵っているようなもので、そこには何の孤独もないのだ。靭く人を愛することは自分の孤独を賭けることだ。”

“しかし僕等が、存在することによって他者に働きかけるように、既に存在した者も、依然として生者に働きかけるのだ。一人の人間は、彼が灰となり塵に帰ってしまった後に於ても、誰かが彼の動作、彼の話しぶり、彼の癖、彼の感じかた、彼の考え、そのようなものを明かに覚えている限り、なお生きている。そして彼を識る人々が一人ずつ死んで行くにつれて、彼の生きる幽明界は次第に狭くなり、最後の一人が死ぬと共に、彼は二度目の、決定的な死を死ぬ。この死と共に、彼はもはや生者の間に甦ることはない。”


このところ福永武彦に惹かれている。
文章がとても色彩豊かでかつ、絶妙の配列(色として)だと思う。
派手ではない、ぐっと押さえられた色味なのだけれど豊かで遊びがあって、読んでいるととても広い範囲をくすぐられる。
丁寧で真摯な文章に、読んでいると一歩いっぽ整った輪郭の足跡をつけられるような気持ちがする。
整った美しい文章だけれど、感覚に溢れている。
自由に飛び交うのに散漫にならず、押さえこまない程度に刺繍されているよう。

「冬」というプロローグはすごく短いのだけれど、いつのまにかこころのなかに汐見という人間が立ち現れて、体温を持った。そればかりか、ちゃんと影も引きずっている。

自分のこころを相手に伝えることは難しい。
私との関係性において存在するそのひと、を相手にするしかない場合、自分が何かを伝えたい相手というのは果たしてどれほど、本当のそのひとに近いのだろう。
自分の気持ちをただすべて並べるのはただの押し付けであるばかりか、言い訳になってしまうのかもしれない…と伝えないでいるとそれぞれの思惑ばかりがどんどん進行してしまうこともあるし。
うん、でもやはり、すべてを語ることなんてできない。
結局わたしを通してのそのひと、としてしか認識できない。
ときどきそのことがすっとこころを冷やす。
これはこの作品からの直接の感想ではない。
ここから受け取ったのはもっと強いその存在そのものと、そのやりとりと、交わりきれずに見すえるその先のこと。 草の花 (新潮文庫)