あまぐり

冷気が入ってくる足元の窓を閉めにいかなければと頭の片隅で考えながらカナダの作家の小説を読んでいた。 静かで暗い朝にとても合う。 さっきまで小鳥が外に向かってさえずっていた窓。 笑い顔に関する記述を読んで、本を閉じた。 このごろ、母が祖母と同じ表情や仕草をする瞬間を見かけるようになった。そのことを思い出したのだった。

子どもの頃、愛されなかったと感じている母。 年を重ねてもその愛情の行く先は相変わらず自らに向いたままで、ちっとも心が触れ合えることがないのよ、とこぼすからわたしは静かに頷いて、ときどき母のために憤ったり祖母の弁護をしてみせる。 祖母と似ている時の母は、お母さんの真似をしてみている小さい女の子みたいに見えた。 しばらく放っておいたら、と助言するけれど祖母は高齢だし、母はそういうことができるたちではない。 いつも少しだけ傷ついて帰ってくる。 ふたりが本当に通じ合うことはないのだ、母が心から、長いこと望んでいることを祖母から直接手渡してもらえることはきっとない。おそらく母は自分が手を尽くし働きかける何かから納得を生み出すしかないのだ。 まだこうしてお互い生きているのに、もどかしいことだと思う。 このままふたりは別れることになるのかもしれない。 この関係のなかで、本人たち以上に、私だけには見えることがある。 私はふたりの血を受け継いでいるから。 そして、母よりずっと祖母に似ているから。

母は私にとても厳しかったから、嫌われているんじゃないかと想像力を膨らませて毎晩枕に顔を押し付けて泣いていた。 どうやって娘に愛情をあげたらいいか分からなかったの、と母は言う。 でも私は母を恐れていたにもかかわらず、思い返せば母に愛情をもらわなかったと感じたことは一度もない。 母にとって幼い頃の私はあまりに風変わりで未知で危なっかしかった。 けれど世界から私が傷つかないように護りのベールをかけながらもうまいこと自由に躍び回らせてくれたと思う。 そんな海の中ではどこまでも泳げることを、だから私は知っている。 母は、自分がほんとうは愛情深い人間であることを、知らない。

朗らかでユーモアがあって誰とでもすぐに仲良くなれる祖母が大好きだった。 おばあちゃんとでかけるとふたりでこっそりおやつを食べた。母が私に手作り以外の甘いものを与えなかったからだ。 祖母と私は似ている。いつも共犯者みたいだったし、一緒にいると楽だった。 一番こころを砕くべきひとの気持ちを後回しにする。 おおらかで、人懐こいけれど心から人を信じるまで時間がかかる。 ひとから多くを貰えるたちで、ひとのために動く努力を備えてこなかった。 勘が強くてひとと交われないところに立っている孤独のようなものが根っこになっている。

団地の階段を降りて左に折れると、駅から繋がる道が坂になっている。 遠く坂をのぼってくる祖母を見つけると全速力でおばあちゃん!と走って飛びついた。 私は木登りですりむいたりくぐったフェンスで服が汚れていたり(スカートはいつも破れるので買ってもらえなくなり、私はその後30歳になるまで一度もスカートをはかなかった)。 ほら甘栗買ってきたよ、と祖母が言う。 私も祖母も甘栗が大好きだから。

祖母の家に行く前に寄った百貨店で、甘栗買っていこうか、と母が言う。 祖母は手がうまく利かなくてもう甘栗がうまく剥けない。 母が栗を割って祖母に渡しているのを見ながら、私はおばあちゃんがひとつ食べてるうちに3つ食べられるよ!と大人げなく栗をどんどん割る。

子どもの頃は似ても似つかなかった母に、私は似てきた。 これからも自分の中に母を発見するだろう。