『ナイン・ストーリーズ』 サリンジャー

読んでいても他のことばかり考えちゃう本がある。
なかなか集中できない本というのとはまた違って、どんどんどこかが鋭敏になってきてそちらに気をとられるような。
立ち表れた感覚の方に意識が飛んでしまって、一度止まったり思いをめぐらしたくなるような。
それとも今の私の状態がそんななのかな。
そうかもしれない。

バナナフィッシュにうってつけの日。
フラニーとゾーイーのお兄さんとしてしか知らなかったシーモアの最後の数時間。
静かできらきらしていて、けれど永遠に拭えない倦怠のようなもので満ちている。
こんなになんでもない一日の延長に死はあって、その死は世界を変えない。
ただ、その事実だけ。
アーヴィングが物語る死もそうで『ウォーターメソッドマン』を読んだときにたぶんほんとうの死とはこういうことなんだととてもショックを受けたのだけど、それに近い衝撃だった。
この場合の死は少しずつ育くまれ(でもからだやこころに死を育まないで生きているひとなんかいるだろうか?)、本人によって選ばれたものだけれど。
でも、死は、死。
ぽつりとこの世からただ断ち切られてしまう、そして相変わらず時間が流れていってしまうのは同じ。
そういう意味で死はとても等しい。
死に対して何かが高まっていったり見失ったり混乱したりしてそこに向かう描写はいくつも見るけれど、こんなに生きる延長みたいに選ばれた停止だからこそものすごい爆発を私のこころに残していった。
きっと私にとって死はこういうものなんだろうという気がした。
予言めいて、こんな死が一番かなしく、自然に感じられるから。

そして小舟の話。
とても細かくしかし客観的に子供の様子をとらえていて、そこに可愛らしさとかどうしようもなさとか混沌とかが息づいている。
子供の感情の発露の筋道は地下水脈みたいに見えなくて一本道を辿れるわけでもない。
けれど突然そこに発生するわけじゃない。
それこそ混沌を掻き混ぜて掬いあがってきたわたあめみたいに、その出所を分類することはできない。
でも大人にとっても感情とか感覚ってそういうことだと感じている。
喜怒哀楽とか、便宜的に名前をつけちゃったけど。
だからきっと、子供が泣きだすとつられて涙が出ちゃうんだろう。
ユダ公って言われてそれを凧のことだと勘違いするんだけど、悪口を言われたということはちゃんと分かって傷つくほんの短い少年時代の話。


笑い男とテディも好きだけどまだうまくことばにできない。
またいつか読み返すはず。

ナイン・ストーリーズ (新潮文庫)