* 逆光をゆく青い鳥



それ以上進めないとわかって後ずさりするところからたぶん切り替わったのだと思う。
いつもそうだ。あの港がはじまりなのかわからないけれどいつも頭をよぎる。
きっとくりかえし重ねるあいだに、そこに疵のように分けてしまったのだろう、茶色の背広ズボンを着た男のひと。
一歩踏み出したままそこに縫いとめられていた。
ただ私がアクセスしてしまっただけなのかいつか風が何度も塗り重ねるまで消えない残り香のようにそこにいるのか、ちょっとわからないけれど。

どんな町や道にも誰かの思い出があるということを想像とか「そういうものだ」というあたまだけでうなずくんじゃなくて、もっと自分の実感に引き寄せてみたかった。
“これはわたしにとって大事な気がする”というところでしか寄り添いたい対象に近づけないなんて、どれだけ傲慢なんだろう。
けれどもし今そういう方法しか思いつかないのなら、少なくともいまは、それでいいんじゃないか。


新しく見つけたのはほんの小さなことだった。
語尾とか、どういう風に見守られてきたのか、どんな風にきちんとしていて、何が好きだったのか。
それは想像することとはまったく違って、ただ話に聞いているのとも全然違って、なんでもない断片だった。
でもほんとうにちいさなことが、はっきりと像を結んでその場所に灯り、追いかけるわたしを照らした。
いとおしく優しくたどりながら、自分がもっとも求めながら恐れていることがまさにこういうことだったのだと知った。

なくなるなつかしい家、知らない時代を知っている大きな木、
変わるけどなにかにかたちを変えて残り、許されるまで猶予をくれる。
時間や記憶はやさしい。
過ぎ去ることで、そして時には、こぼれ落ちるまでの道のりをくれることで。


どうまわりを見渡してもそこにしか道は残っていない…というか最初からそこだけが光っていた。
存在は知っていたけれど立ち入れなかった。
または方向の見当がつかなかった。
あまり結びすぎると自分を失うような気がしていたんだと思う。もしくは切り分けすぎて、薄まってしまうことを怖がったのかもしれない。
たいせつになったら深く関わってしまう。
自分が考えているよりずっとひとつのことにしかこころが配れないことをなにより芯が知っている。
だからもぐらない。
そうしているうちにもぐるすべを忘れてしまった。
これこそもぐりたいと思うものを見つけても見当違いに、水面ばかりみるようになった。

でもいつまで、いったい何のために自分を出し惜しんで取っておくつもりだろう。
使い果たすまでどのくらい量があるかもわからないのにただ懐に確りと握っている。
遅すぎるくらいわたしはそれを待たせたし、実際手遅れだったということになっているかもしれないくらいなのに。


たからものの断片もすじみちもぜんぶここにある。

複雑で邪魔なものばっかりがふさぐ道をやっとこ通って、私は子供のころから誰でも知っているようないちばん簡単なものを取りにゆこうとしている。
きっと、おうちに戻るだけなのだろうという気がする。
終点はきっと、夢から醒めた鳥かご。