霧の中だけど作業をすすめなきゃ



踊ることに対する意識がいつのまにか随分と変わったということをひとと話して実感した。
好き嫌いもはっきりしてきたし、なにが(自分にとって)踊り(と呼びたいもの)でなにが踊りじゃなく、どこまでが芸術のようなものでどこからがエンターテイメントなのか、そういうこともはっきりしてくると同時に、分類することはどうでもよくなった。
ただそこにいい感触があるかどうか、それだけがたいせつかもしれない。

けれど自分のことはというと、表面に出ている正面体当たり的な部分と、ぬくみをじっと感じようと目を閉じている内面とのギャップはいまだ大きい。
感じたり考えたり響かせたいと思っていることが表面ににじんでゆかない。
ダンサーとしてだけじゃなくて、どういうわけかわたしは昔からそういうところがある。
イメージのずれ。
上滑りしてちっとも手をむすばない。
この自分の思い込みのようなものをどんどん忘れていきたい気がしている。
たくさん材料をもらってそれを単純に自分にひきこまないでもうただ素直にもぐもぐ消化する。
もうとっくにこれが必要だと分かっていたのに後回しをしていたこころひかれることを、この足や手や目や耳で触れにゆく。
あるものは新しいことだし、あるものは根っこに立ち返ることだし、あるものは基本をただすこと。
たった今そこで出会うものやたった今生まれてきたことに対してはもう少し敏感に反応してやっとそのしっぽだけをからだの表面に浮かび上がらせることができる(かもしれない)。
そういった体験をまさにしている、という自分だけがそこにあるから。
その連続が淡くなにかを残すことを期待するのはもう終わりで、ひとつひとつがぜんぶを斬ってくれなくてはいけないんだと思う。


あっちの道もこっちの角もつついてやりきってみて、もうなにも残っていない、という状態はもしかしてすごく孤独ににているもしれない。
からだすら切りわけて、ばらばらになってしまったような気がするから。
でもきっと、それは単純な孤独じゃあないんだな。
それはもしかしたらほんとうのはじまりのようなもので、ひとりでしか見えない景色があるみたいに、そこからしかはじまらないことやくっつかないものごとがあって、わたしたちはほんとうのことを手にいれたかったら何度もそこに立ち返ることがひつようなのかもしれない。


わたしがなにもことばにできなかったり言い切ったりできないのは、ときには、ことばがへたくそだからでもなければそれが微妙すぎて灰色の中にあるからというだけではない。
行き止まりのその壁を見ていないからだ。