かたちにならないことがかたちになってきたことについて

ことばを探しながら、なにを浮かび上がらせたいのかな。
今までこころを動かされてきたことが水面の底でちかちか光る石みたいに呼んでいる。
ざっと見渡してこれかな、これかな、と手にとって、足元をひたす水で洗って、重みを確かめ、手放して、その水を飲んでみる。
どこに向かうのかわからないけもの道をたどるみたいに、でも確実にひっかかる点と点をむすんで、この水の味とどこで手を取り合うのかと目を瞑る。
ほとんどの場合はたどり着けない。
可能性がぼんやり拡散して、薄く晴れていることが見えるだけ。
または、すぽっと、唐突に摘み取られてしまう。

明確なものには終わりがある。
でも終わりがあるから永遠に刻めるのかもしれない。
続くもの、からそれを隔てるのは「個」のようなものかもしれないし、時間的なものかもしれない。
もしかしたらわたしがこの自分という個のなかから見つけ出したいのはそれだけが今私の手に負える「限られたもの」であるからかもしれないな。
切り刻んで、細かく味わって、それがほかの限られないすべてのものとの橋渡しをしてくれるんじゃないかという気がしているのかもしれない。
終わりあるものの、永遠性のようなものを通じて。


こころが時にとても単純な反応をするのは、からだが物体であることと関係があるのかな。
もちろんそうなんだろう。
でもきっとそれを「単純」ととらえることが、ただ簡単になにかを区切って、その中身を分割していない安易さと関係あるのかもしない気もする。
(ちょっとこれはよくわからなくてことばにするには早すぎる)


ようやっとバーレッスンの重要性に気付いたように、いちばんの根本を得にいかなきゃいけない。
根っこは私の足元に伸びているかもしれないけれど、ただ漫然と、とか、ただ眉間にしわを寄せてぐりぐり掘ろうとしても見当違いな空洞を掘り当てるだけかもしれない。
その刻み方なんだ、きっと、だいじなのは。
きっとそうしてやっと、自分が区切ったものからはばたける。