* GAGA、正反対のものはおなじ



GAGAのワークを受けてきた。

もうからだはきっといつでも用意はあるんだ。
それにアイデアを与えて、イメージを言葉で引き出す。
もっともっと豊かに、もっと繊細になれる。
頭のなかだけのイメージではなくてからだが(皮膚が、纏う空気が、かもしれない)しっかりとイメージを抽出できるようになるためにはもっと自分を知らなければいけない。
どんな動きができるのか、どんな癖で動くのか、新しい動きは何か、そんなことも全部やりつくしてもともとの自分からずいぶん先まで歩いた頃、やっと素直にほどけるのかもしれない。
動ける分かたくななんだろうなあと思う。
知っているから、無防備になりたいと、慎重にしんちょうに探った。

やっぱりやみくもではいけない。
賢く与える術は、こうして世界にちゃんと存在してる。

いまさら何を言っているんだろう。
当たり前のことを私は何度も納得し直している。
いつもそれなりに大きな発見なのに、また剥いたらほんとうの瞳が出てくるように、それは到達点ではないのだ。
でも考えてみたらそれがわたしの性質なんだろう。
あちこちのおいもを獲得してゆくのではなくて、私はひとつの、きりのないたまねぎを見つめているのだ。

私が向かう先になにがあるか、予測はついている。
光のあたらない闇を映す水だ。
きりのない中心にそれはあって、限りなく点に近いから、もうその表面になにがどんなふうに映るのかは問題じゃないのかもしれない。
光があたらないのではなくてただあまりにも透き通っているだけかもしれない。
けれど、それは深いふかいまんなかにありながら、世界のはしまでを映しているのだと思う。
わたしはそこに近づいてゆけばいい。
ただ、それを確りと見つめてその存在に手先を、目を、耳を、すべてを差し入れてゆきさえすればいい。
なにがそこに映るのかということは、もうわたしの手に負えることではないのだ。
きっと。


GAGAのワークから離れちゃった。