ながれてとりさって



みなとみらいの象の鼻公園のオープニングの時に撮った写真。
あれからもう1ヶ月。
早いものだなあと思う。
空のひかりが強くなったなと思った次の日梅雨明けが宣言された。

8月の淡路島でどんなことを柱にして踊るか?ということを話したときに、ひとが外から見る印象と本人が持つ自分像とのズレのようなもののことが話題に上った。
ちょうどその日の昼間会社のとあるひとに挙動不審にならず穏やかに接することができた瞬間があって、なにか自分の表面に設定をつくらなくていいのだということをぼんやり思った日だったので不思議だった。

日々私は偏屈になっていっているんじゃないかというおもいにとらわれている。
じっくり掘り起こしてやわらかになれるはずなのに、どんどん偏ってからだの片方を圧迫しているのではないか。
ひろく受け入れるのはただのポーズで(自分でもそんなつもりはないのだけれど)、ほんとうはてのひらを固く握り締めたままなのではないか。

一緒に踊る友人でこのごろとてもいい抜けかたをしていると感じる女性がいる。
なんだか空気が通ったかんじがする。
内側の余分なしぶのようなものが落ちて、透明な光を発しているみたい。
湧きでたてのおいしい水みたい。
そういえば舞台に来てくれた男の子の友人もこんな感じだった。
(隣にいるSちゃんは守り、まもられ、みたいにぽっぽとする小さな山みたいだった。駆け出しそうな熱じゃなくて)

たぶんわたしはいくぶん偏っている。
とはいえ、しばらくかたよっていってもいいかもしれない。
いつか透き通るのだということをちゃんと忘れなければ。
いまはその行き来のなかでしかわからないから。