遠い国で(『停電の夜に』)

今『停電の夜に』を読んでいる。
ジュンパ・ラヒリ自身がそうであるように、母国から離れているインドのひとの話が多い。
国から離れていることは直接物語の大筋には関係がないこともある。けれどどこかにそのことを抱えている。

読んでいてふと、アーヴィングの『サーカスの息子』で私が一番打たれたシーンを思い出した。
確か、主人公が線路か道路かの近くで自分がまったく異国にいるということを深く感じる場面。
細かいことは忘れてしまった。でもそれは単純なノスタルジーとか疎外感のようなものではなく、もっと複雑な感情だった。
自分がなにものでありその水脈はどこから流れているのかというようなこと、そして自分が今まさに立っているここと祖国とはなんて遠く離れていることか。主人公を通じて私のこころに残ったのはそんな想いだった気がする。
どこに根を張っても結局自分が想いを馳せ、こころをつかまれているのはこの風景や繋がりではなく、祖国。
痛切だけれどただ悲しいのではなく、生活を愛してもいる。
彩られる毎日のページがばらばら風に吹かれたら最後のにその景色があって動けなくなってしまう、というように。
哀切と世界が色に改めて包まれる瞬間が入り交じっている。
そんな印象。
(もう一度読んでみたら全然違ったりして)

私がヨーロッパにいた時、期間も短かったしすぐに帰る予定もあったし自分が望んだ旅だったし、とても同じ気持ちをわかることはできないだろうけれど、それでも時折、こんなに遠くに来てしまったのだということがこころをダイレクトに叩く瞬間はあった。
私はここの何とも結ばれていない。私にとってこの地がもし通り過ぎるだけのものであったとしてもこの場所にとって私はそれ以上になんでもない幻なんだ、という風に。
誰も私のことを待ってはいないんだ、ということが切り裂いた。もちろん家族も友達もちゃんといるのに。
きっと私はなぞれるくらいにはっきりと強いものを求めすぎるのだ。
永遠とか絶対みたいなもの。

必ずしも悲しかっただけではない。
孤独だったけど、ただそれだけのこと。

それ以来、ときどき、一歩いっぽ歩いている自分のこの移動が果たして何に向かっているのか?私はどれだけこれを繰り返してどこに行き着くのだろう、ととりとめなく考えたりする。


昔よりずっと、時間が過ぎていくことがつらくなくなった。
きっとバランスが酷く悪かったんだろう、あの頃は。
消えたものには二度と巡り合えないと思っていた。

そして今はまだ、本当に何かを失うことを知らないだけなんだろう。

停電の夜に (新潮文庫)