ちょっとした日記

15:22
複雑なことを内包する話をしたり、細かな感覚の話ができたり、広くて射程の長い視野を持っているような風に話したり、想像力や客観性を持っているように聞こえたり、ある現象をうまいこと言葉に変換していたり、
言葉を扱うことがうまい人がいっぱいいる。
このひとは輻輳的にものごとを見ている人なんだなと話を聞いていると、あるところでぽっかり、というか何か根っこのところで抜けがあって、実は言葉によってそこに繋がっているように思わせてしまう(聞いている私も、話している本人をも)だけなんだなということがわかる。
「身体的な言葉」みたいなことをみんな言うけれど、身体的な言葉であると勘違いさせるのもまたその言葉のできることだ。
繊細で、ものの本質を捉えていて、大事なものを削ぎ落としすぎず持ったまま話している、ようにいっけん見せかけることはそんなに難しいことではない。そういうものばかりが転がっているからそういうものを見抜く目が育たず、誰にも見抜けなくなっているだけだ。だから本人もいつまでも気づかない。
文化人類学をやっている、哲学をやっている、芸術をやっている、という人だって同じ。
それらしいことを言えるからよほど罪深いかもしれない。