あまり推敲もしないままの日記

どこにも、何も、書くようなことがなかった。
本を読んだり仕事をしたり日常の動作をするなかで、何かしらを考えて、絶えず書きたいような気がしているのは確かで、頭のなかでは「これを書くとしたら」という想定をしている。でも実際に文字にして、並べ直して、誰かに読めるようにする根気がなかった。
浮かんでくる考えは外に出してしまった途端にそれを聞かされた側との関係を悪くさせるような気がした。あまりにも偏った態度を続けてきたせいで(人に会わずに引きこもっていたせいだ)それが身に染みすぎて、社会的な顔をするのがむずかしくなっている、発言も同じ、分かってもらえるように話すことができなくなっているような気がしている。
思いついては自分の口のなかで消して、否定して、諦める。言っても理解されないという気持ちが前は大きかったけれど、今は自分の考えていることが言うまでもないことだったり、私の能力ではとうてい伝えきれないものだと感じたり、言葉にしようとすればなんだかどんどん地滑りしていって私自身すら別のところに運ばれちゃう気がする、と、なんだか言葉を発する自分と、黙っている自分とがすごくちぐはぐな感じがしたのだった。

アンドレ・ジッドの『田園交響楽』、とうとう挫折してしまった。
1週間くらい読む時間を取れなくて、内容が難しいからよけいに少しの時間があったとしても本を開くことができなくて、遠ざかってみたらもう帰るのが困難だった。
人と一緒に読める良い機会であったし、そのこと自体が楽しいから脱落したくない気持ちはあったのだけれど、すらすら読めるフレーズもほぼなくて、翻訳を読んで「ああ、なるほど」とは思うけれど、その文章を読み進みたいとなかなか思えなくなってしまった。
もちろん作品のせいではない。ジッドは悪くない(当然である)。レベルが釣り合わなかった。
7割分かる本を読もう、というアドバイスがあるけれど、これはいつかまた読むことにして、他のものに手をつけてみることにする。