夏をおくる、『ネイチャー・センス展』

夏から秋はずっと走っていた気がする。
でも息も出来ずに走っていたのではなくて、走りながらたくさんきょろきょろしていろんな風を顔に当てた。
写真を見ると半ば忘れかけていることがいくつかある。
もしかして走りながら味わったことを景色が去ったあともきちんと反芻したくて写真を撮っているのかもしれない。

11月にはいって新しいリハーサルが始まった。
水の波紋のようなとても細やかで微妙な気付き。
これを上っ面じゃないところで感じて、見せられるようになりたい。

からだの上に浮き上がらせるときやもっと前段階の振りにするときに、このあらわしたい何かを正直にそのまま出そうとしてもそれはちょっと難しい。
その翻訳方法のことに頭を向けるべきだし、そのことに気付いた今、少し整理をすべきだという気がする。
たぶんそのあらわしたいことをもっと穴が空くくらい見つめれば自然とどういう種類の翻訳のしかた(種類)が適しているのか見えてくるような気がする。
ただなにか借り物とか、自分の規定したものに当てはめちゃうのではなくて。
なにになりたいかを聞く作業。
つまり、あらわしたいそのものとは一体何であるのか?という掘り下げの作業。
そうじゃないと、樹に造花を貼り付けて必死に生気を通わせようとする作業みたいに、なにか決定的に抜けてゆかないことになる。

+

六本木の森美術館にネイチャー・センス展を観にいったのだけれど、想像よりも受ける感触が物足りなかった。
一番見たかった羽根の展示が、もう展示も最後に差し掛かっていたからか重く固まっていて風に吹かれているのはほんの表面に過ぎなかった。
たぶんその湿気を帯びた重みがずっと展示を見ている間じゅうからだの芯の奥深くにあって、軽く羽ばたくことができなかった。
なにか巨大なインスタレーションをめぐる日、にしかできなかった。
作品のせいではなくてもしかしたら私のその日のコンディションだったのかもしれないけれど。
一番響いたのはもしかしたら映像作品だったかもしれない。

+

そのひとにとって何か切実なものがあって作品がある。
でも作品は、その切実さをただ説明するものであってはいけないんだなあと思う。
作品はそれ自体がちゃんと単独で生きていなきゃいけないんだなあ。
自分がどんなことをどんなつもりでやっている、だからこういう素材を使ってこんな演出を施した。それを見ることもいい刺激なのだけれど、感じるというのはそういうところをもっと突き抜けたところにあって、その切実の感触それ自体にお客さんを引き寄せなければいけないんだと思う。
頭なんか置いてきてもらって、皮膚だけ連れてゆかなきゃいけない。

そのためには作家はただ強い激情の波のなかにいればいいのではなくて、まったくその逆なのだな。
たぶん。