受け手を発酵させる文章かどうか

夢の中で気の合うひとがいたような気がするのだけど、その感じだけを残して霧散してしまった。

 

 

発酵に関する本を読んだ。内容としては発酵を理解する入り口になるような気軽なものであったけれど、教えられることもたくさんあって読んで良かったと思う。
けれど随所、言葉の選び方に引っかかる点があって、考え込んでしまった。(この頃こういうことばかりが気になってすぐ文句を言ってしまうのでいけない、と思いつつも)
遠いもののように思っているかもしれないけど本当は私たち人間の身近にあるもの、生活とともにあるもので、接してみると楽しいんだよ、ということを言いたいがための軽い表現なのだということは十分にわかるのだけれども、やっぱり言葉の端々に作者がこのことをコマーシャル的な、デザイン的なものとして捉えているようなところが見受けられて、読む手が止まる。
こういう卑近な表現を使って読者を表面的に引き寄せる、真に読む力や想像力を信じないような、受け手を育てようとしないものは、細かい作業をしているほかの作家の妨げをしていないか?とつい考えてしまう。


発酵現象はわかりやすいものではないし、腐敗と紙一重のところがあるのでとっつきにくい感じがする、だからわかりやすいものに引き寄せてみたら、楽しそうでしょ?と言いたいのもよくわかる(そしてきっとそれは成功もしている)。
けれども、こういう、何か物と物との間のことを語ろうとするならば、はっきりとわかりやすいものだけで読者を納得させようとするような試みをこそ止めなければいけないんじゃないかと私は思う…。
世間的にはこういうものが求められていて、評価されるのもわかるんだけど。

別に難しいものを難しいまま語れと言っているわけじゃなくて、やさしく語るにしても、既存の固定観念を前提とした語り口とか、わかりやすい軽口のようなものから離れてみてもいいんじゃないの、こういうテーマだからこそ…というようなことを思った。
この本に社会問題まで背負わせるのはただの私の勝手なので、書名は書かないでおくけれど。